ターイファス(タワイフ)の時代に舞台となった都市の歴史 part2 cf. トレド バレンシア グラナダ セビリア バダホス コルドバ

○サラゴサ
タイファの勢力図 主な出来事
ローマ時代 イベリア族とケルト人が混合した人々がつくったサルドゥバという町であったが、それをローマ人が紀元前後に占領し入植し、カエサルアウグスタと命名した。アラビア語のサラクサタはこれがなまったものであり、さらにサラゴサとなった。
西ゴード時代
560-713
ローマ時代からエブロ側流域の商業と軍事の中心地であった。
アラブ時代(植民地)
711-779
713年ムーサとターリクの指揮下のベルベル人が占領する。その後大量のアラブ人がここに定着した(特に、ムハンマド時代の指導者の子孫、メッカのクライシュ族のズフラ家の子孫、コルドバから移ったアミールの子孫、などアラブ族名門の人々が目立つ)。ベルベル族は少数派であった。
749
年当時アンダルシアアラブ最大の有力者スマイルが現地に勢力を築いていたアラブから土地を奪い勢力を増す。
755
アブド・アッラフマーン1世総督ユースフを破り後ウマイヤ朝のアミールとなるがサラゴサは自治を守る。

777年アブド・アッラフマーン1世、がサラゴサを包囲。当時フサイン・イブン・ヤフヤ(アンサール)とカルブ族のスライマーン・イブン・ヤクザーン・アル・アアラービーが指導者。
778
アアラービーは、ザクセンにいたカール大帝のもとに、彼の子と旧総督ユースフの子を派遣し援助を求める
カール大帝
は大軍でスペインに入りサラゴサとバルセロナに同時侵攻したが、逆に恐れをなしたか?両都市とも開城せず、カール大帝は、ザクセン族の反乱の報に接し、はアアラービーの子を人質にして退却することになる。その後フサインはアアラービーを殺害し単独支配者となり、アブド・アッラフマーン1世と条約を結ぶ。
*この時のカール大帝の帰途、ピレネー越え時に起こったのが、フランスの中世武勲詩「ローランの歌」に歌われた事件である。実際は帰路で待ち伏せしたバスク族に襲撃されたのであるが、詩ではアラブ族が攻撃したことになっている。

アラブ時代(後ウマイヤ朝)
779-912

779年フサインに条約を破棄されたアブド・アッラフマーン1世はサラゴサを包囲、サラゴサ陥落。後ウマイヤ朝の支配下に入る。
この時、アブド・アッラフマーン1世パンプローナに侵攻、占領する。

その後フサインの子サイードの一派、アアラービーの子マトルーフの一派、カスィー家の一派、そしてイスラム教に改宗した旧西ゴード族貴族の一派の間での闘争があったが、791年、最終的にイスラム教に改宗した旧西ゴード族貴族アムルースが掌握し、後ウマイヤ朝に直接仕えることになった→後ウマイヤ朝アミール、ヒシャーム一世に派遣されたダマスクス軍団アブー・ウスマーンにサラゴサ開城。
*アブー・ウスマーンは、この年791年に、アスチュリアス王国領への夏の略奪的遠征(サーイファ)を行い、これ以降アスチュリアス本土、バスク、アラバに対するサーイファがサラゴサを基地として行われる様になった。

785年ヘロナ、カール大帝に開城。
793サーイファの司令官アブドゥル・マリク・イブン・ムーギスによるヘロナとナルボンヌの攻撃。救援のトゥールーズ伯を敗る。
→アラブ最後のピレネー越え

798年第3代アミール、ハカム一世の叔父、アブドゥラー、当時のサラゴサの支配者バフルールと組み、アーヘンのカール大帝と接見、援助を要請。カールの息子ルイ(ルードヴィヒ)一世指揮下のフランク軍とウエスカを占領→後ウマイヤ朝の遠征軍により鎮圧、敗走。
801バルセローナ陥落ルイ一世は2年間の包囲の末バルセローナを占領。
802年ムワラッド貴族アルムース、トレドの代官からサラゴサの代官に転任。→
アルムース家の台頭。

812年ハカム一世、使節をアーヘンに派遣しカール大帝と3年間の休戦条約締結。
*このころアアラービーの息子アイシューン、フランク王に仕える→後アブド・アッラフマーン二世と結ぶ。
828アブド・アッラフマーン二世、バルセローナとヘロナへ遠征軍派遣→占領失敗。
*この頃ルイ一世の宮廷付き僧侶ボドがユダヤ教に改宗(838)(当時サラゴサにユダヤ教徒は非常に多かった)し、サラゴサに定着する。

847年アブド・アッラフマーン二世、トゥールーズ伯ギョームをコルドバに招き、共闘し、西フランク王シャルル二世にあたる。
ギョーム、シャルル二世側の貴族領への攻撃を繰り返し、849年にはサラゴサとトルトーサのアラブ軍と共にバルセローナとヘロナを攻撃する。
850
カスィー家ムーサ、サラゴサの代官に任命→カスィー家の台頭。ムーサは「スペインで三番目の王」と自称する。
*息子/ムッタリフ→
ナバラ王ガルシアの娘と結婚/イスマイールとルッブ→サラゴサを支配
870年ムハンマド一世(第5代アミール)の親征。→ムッタリフを処刑
イスマイールはアスチュリアス王
アルフォンソ三世と事実上の同盟関係を結ぶ。→後ウマイヤ朝の遠征
→884年に金貨15000デーナールと引き換えにサラゴサを明け渡す。
890
トゥジーブ家のムハンマド、後ウマイヤ朝により、サラゴサの代官に任命→トゥジーブ家の台頭。

アラブ時代(後ウマイヤ朝)
カリフ国の時代
912-1031

920年−937年キリスト教国の攻勢に対する、アブド・アッラフマーン三世(第8代アミール)の断続的遠征。
ターイファス時代
1031-1118
フード家のスライマーン・イブン・フード、レーリダで1036年まで廃位されたウマイヤ朝最後のカリフ、ヒシャーム三世を保護する。
1039年、
フード家スライマーン・イブン・フード、サラゴサ市民に招かれ一帯を支配、アル・ムスタイーン一世(ラカブ)を称す。
アル・ムスタイーン一世は、5人の子に、サラゴサ、レーリダ、ウエスカ、トゥデーラ、カラタユーを分割したが、彼の死後(1046)に激しい争いがおこった。その中で最も有力であったのがサラゴサの
アル・ムクタディルであった。

*1064年ノルマン人を含むキリスト教徒の大部隊により、ウエスカ、バルバストロが略奪される(強姦、略奪、女子供の奴隷化)。→世論の高まりによりアッバード朝をはじめとする各地からの援軍により奪還。
アル・ムクタディルは、レオン・カスティーリャ連合王国のフェルナンド一世、サンチョ二世、アルフォンソ六世の侵攻に苦しみ、貢納金を納めるための追加税により民衆より非難。しかし厳しい環境の中でも文化人を擁護し、アルハフェリーア(アル・ジャアファリーヤ)宮殿を造営した。

晩年、旧カスティーリャの貴族、ロドリーゴ・エル・シドを傭兵隊長として採用する。
1096年エル・シド大敗、ウエスカとバルバストロをアラゴンに奪われる(アル・ムクダディルの孫アル・ムスタイーン二世(1085-1110)の治世)。
1110年アル・ムスタイーン二世、アラゴンのアルフォンソ一世に敗北死。→サラゴサ市民はアル・ムラービトゥーン朝のバレンシア代官を招き入れる。→フード朝の廃王はルエダに移りカスティーリャの保護下に入る。→1140年旧フード朝最後の王サイフッダウラはカスティーリャ王国内に封土を与えられ、ルエダを放棄する。
アル・ムラービトゥーン朝は次々援軍を送るも、アルフォンソ一世に敗れる。
アラゴン王国時代
1118-
1118年、アラゴンアルフォンソ一世、大量の南フランスの騎士の援軍を得て、サラゴサを占領。→首都をサラゴサに移す。
サラゴサのアルハフェリア宮殿はベネディクト派の修道院として転用される。14-15世紀にアラゴンの王宮となる。
1149年、サラゴラ領主要都市、アラゴン王国の元に陥落する。
アラゴンは人口の大多数を占める先進的なムスリムを追放できず、国王直接の臣民としてキリスト教徒の迫害から保護した。ムスリムはムデハルとしてサラゴサ、カラタユーなどの都市の他エブロ川やハロン川の流域の農村で人口の多数を占めた。一部のエリートムスリムはアラゴン全土の終身のカーディー(裁判官)として任命され王の恩恵を受けた(1355年頃のファラジ・デ・ベルビスの例)。

一方でエブロ川上流のトゥデーラとその周辺のラ・リベラ地方はナバーラ王国領となり、人口が10万人ほどしかないナバーラは、医療、獣医療、運送業、武器や馬具の製作、建築、灌漑農業のノウハウを持つムスリム住民を厚遇した。→1512年カスティーリャ軍がナバラを占領、1516年にカスティーリャ法がナバラに適用され、ムスリムは改宗をせまられ、アラゴン領に落ち延びる。

*主たる参考文献/アラブとしてのスペイン 余部福三


05/06/08//2006/11/04
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