ターイファス(タワイフ)の時代に舞台となった都市の歴史 part3 cf. サラゴサ トレド グラナダ セビリア バダホス コルドバ

○バレンシア
タイファの勢力図 主な出来事
ローマ時代 紀元前138年、ローマ人によって退役軍人の植民市として建設され、アウグストゥスの時代に再建され、ヴァレンティアと呼ばれるようになった。
西ゴード時代
560-713
ローマ末期から西ゴートの時代は、この地域は人口も少なくさびれていた。
アラブ時代(植民地)
711-779
ここを征服したアラブはこの都市をバランスィヤと呼び、そこからバレンシアという言葉が生まれたが、征服の記録が殆ど残らないほど、当時は重要視されておらず、アラブ族はあまり入植しなかったが、ベルベル族はバレンシア市内周辺に定着した。

アラブ時代(後ウマイヤ朝)
779-1009

801年アブドゥッラフマーン一世の子アブドゥラーが、甥のハカム一世と王位を争い、失敗しバレンシア地方に逃れてくる。
3年の交渉の後、バレンシア地方に自らの藩国をつくることを許されるが、823年にハカム一世が死すと王位を求め三度の反乱を起こすが病死し、藩国は廃止される。(バレンシアの郊外にコルドバ郊外のルサーファ宮殿を模した同名のルサーファという宮殿を建てた)
8−9世紀、税収的にも、政治的にも重要視されてなかった。
924年、ヤアクーブ・イブン・アビー・ハーリドという地方指導者が、キリスト教国の攻勢に対する、アブド・アッラフマーン三世(第8代アミール)の遠征時に、降伏し、従軍する。
9世紀末−10世紀初頭、大内乱時代。ムワラッド貴族の台頭、エジプト軍のアラブ族の進出等。

アラブ時代(後ウマイヤ朝)
カリフ国の時代
912-1023

10世紀、灌漑農業が急激に発達、米の栽培が盛んになり、中央政府から灌漑を監督する役人が派遣される。
ターイファス時代
1009-1102
サカーリバムバーラクムザッファルがこの監督官となる。
1009年、コルドバで市民が反アミール家革命を起こすと、アーミル家のマワーリーであった多くのサカーリバが東海岸に逃亡し、住民を抑えて小政権を樹立するようになる。バレンシアでは最初マヨルカ。ミノルカ島の代官ムジャーヒドが政権を樹立したが、この地の監督官であったムバーラクとムザッファルが政権を奪い共同統治を行う。
ムバーラクとムザッファルは同じアル・カスル宮殿に住みハレム以外は全て共有するという完全に平等の共同統治を行い、彼らの支配下で、彼らの治下、純粋なサカーリバだけでなく、アーミル家のマワーリーであったフランク人やバスク人も集って高い地位を占めるようになった。
多くの学者、官僚、裕福者、職人もここに避難し、壮麗な建物や庭園が建てられ、コルドバと同様の洗練された暮らしが行われるようになった。
1021年、バレンシアのサカーリバたちは、アーミル家のシャンジュールの子、アブドゥルアズィーズ(サラゴサのトゥージーブ家の保護下にあった)を統治者として招き入れる。彼はハンムード家のカリフ、カーシム(18、20代アミール)に忠誠を誓い、バレンシアの代官に任命される。
彼はバレンシアに堅固な城壁とトゥリア川の石橋を築き、トゥリア川の対岸に離宮(ムンヤ)を造営した。
1038年、アルメリーア市民、
アブドゥルアズィーズを統治者として迎える。→1042年アルメリーアを放棄。
この頃から、アブドゥルアズィーズ、周辺諸国との抗争に、キリスト教国の兵を導入して防衛すると共に、トレドのズンヌーン朝のアル・マームーンに頼って王権を守ろうとし、王女を嫁がせる。以後ズンヌーンの兵がバレンシアに置かれる。
1060年、アブドゥルアズィーズ死亡(新王アブドゥルマリク)。多方面からの侵略を受ける。
1064年、アルメリーア王国のアル・ムウタスィムの侵攻。
1065年、レオン・カスティーリャ王国のフェルナンド一世の侵攻。
1066年、トレドのズンヌーン朝のアル・マームーンに、バレンシアを開城。宰相アブー・バクルは、バレンシアの代官となる(王は投獄)。
1075年、アル・マームーンの死後、アブー・バクル独立を宣言。
1085年、アブー・バクル死亡。
トレドのズンヌーン朝のアル・カーディルは、トレドをアルフォンソ6世に譲渡し、代わりにアルフォン6世の支援を得、バレンシアを奪回し、有力貴族と共にバレンシアに入る。しかし、王権を支える為カスティーリャ軍を城内にとどめ、アルフォン6世へ莫大な貢納を強いられた。
1087年、サラゴサのフード朝に仕えていたエル・シド、バレンシアを無断で占領、アル・カーディルを支配。
1092年−バレンシア市民の革命、アル・カーディル殺害、アル・ムラービトゥーン朝入城、エル・シド軍退却。→エル・シド再侵攻。
1094年−99年、エル・シドの統治。
1102年、エル・シドの妻ヒメーナバレンシアを放棄。アル・ムラービトゥーン朝の統治始まる。

アル・ムラービトゥーン朝  時代
1102-1145

1104年アルバラシンのラズィーン朝を滅ぼす。
1107年アルプエンテのカースィム朝を滅ぼす。
1107年-アラゴンから、バレンシア北方のクッリャ、オロペサ、モントルネスを奪還。フード朝からトルトーサ、レリーダを奪う。
1115年、マヨルカ島を、バルセロナ、ジェノバ、ピサから奪還。
*勢力の中心はムルシアでバレンシアは弱体化。
1125年アラゴンのアルフォンソ1世のグラナダ遠征の通過を許す。
1129年モロッコ、ムルシアを援軍を得ながら、アルシアでアラゴンに大敗。
自治政権時代
1145-1172
1145年、カーディー、アブー・アブディルマルク・イブン・アブディルアズィーズを中心とした市民の蜂起。アル・ムラービトゥーンを追放。
1146年、市民、カーディーを追放し、辺境防衛軍指揮官イブン・イヤード(ムルシア本拠)に政権を委ねる。
1147年、イブン・イヤードの部下イブン・マルダニーシュ(ムルシア本拠)の支配。弟のユースフが代官として駐留。
1172年、イブン・マルダニーシュ死亡。
アル・ムワッヒドゥーン朝 時代
1172-1229
アル・ムワッヒドゥーン朝の侵攻。イブン・マルダニーシュの弟のユースフは代官として再任。1186年死亡。
1229年、ユースフの孫ザイヤーンが市民の支持を受け、バレンシア・デーニアで政権をとる。

ザイヤーンの政権
1229-1238
ザイヤーンの政権 *アッバース朝のカリフの宗主権を認める。
1230年〜アラゴンのハイメ1世(ジャウマ1世)との抗争。
1237年、エル・プイグの戦いでハイメ1世に大敗する。チュニジアのハフス朝に救援を要請するも不発。
1238年、ハイメ1世、バレンシア占領。*ザイヤーン、デーニアに逃れる。
アラゴンの時代
1238-
ハイメ1世の統治。
1248年大量のムスリムを追放。

*その後、ムスリムの住民を温存し、イスラーム信仰を許し、教会やキリスト教徒の迫害から保護する。13世紀〜16世紀を通じて住民の大半はムスリムが占める。
1276年ハイメ2世ハーティバの支配者アル・アズラク(ムハンマド・イブン・フザイル)を討つ。
1313年、宗教会議の決定で、マスジドからのムアッジンの礼拝の呼びかけ(アザーン)禁止される。
*キリスト教教会はムスリムの強制改宗か追放を策謀したが、王は受け入れなかった。また王や貴族はムスリムを保護したが、移住してきたキリスト教徒の貧民がムスリムに対する暴動を起こした為、グラナダ領やマグリブに移住する。
1400年頃、王や貴族は都市や農地の荒廃を恐れ、ムスリムの国外移住を禁止し、ムスリム住民を一層保護する。
1520年代、中下層市民が貴族に対して大規模な暴動を起こした時、ムスリムは終始、王と大貴族への忠誠を守った。

*住民はマグリブとの貿易を通じて常に他地域のムスリムと接触し、孤独感を味わうことはなかったが、知識人はほぼ全て亡命した為、学問的な成果は見られなくなった。

*主たる参考文献/アラブとしてのスペイン 余部福三


05/06/08// 07/02/12追記修正
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