気になる、出来事?文化拡散の契機?!

スペインのコルドバの後ウマイヤ朝政権の崩壊(
1031年)による文化の拡散が気になっている。アブドゥッラフマーン三世の治世に後ウマイヤ朝は空前絶後の繁栄を享受し、アラブ世界の有能な学者や文人、工匠たちを集めることになるが、王朝の内部分裂による崩壊に伴いより、コルドバやセビリアの文化人や工匠たちはパトロンを求めてスペイン各地の有力ターイファスの王たちの元に拡散していっている。トレドやサラゴサ、バレンシアなど北部のスペインの都市の文化的繁栄はこの出来事と深い関係を持っている(同時にキリスト教国と深い関係を持つ)が、さらに地中海に交易航路を確立していたアラブ人たちは、北アフリカやイタリアのシチリアにも移住していったのではないだろうか?

南イタリアで傭兵として勢力奮ったノルマン人の一派であるロベール・ギスカール(ロゲリウス一世)とその一族は、
1061年メッシナ征服、1072年パレルモ征服とシチリアを制圧し、アラブ人の支配に終止符を打つことになるが、その立役者となったのもまた別のアラブ人の傭兵たちであった。その為ロベールはアラブ文化を擁護することになる。もとより、スペインとイタリアは交易が盛んであったと考えられるが、このルートはそこで断たれた訳ではなかった(イブン・ジュバイル1145-1217の旅行記の航路など)。文化はスペインから直接シチリアへ、またスペインから北アフリカへ北アフリカからシチリアへ、流れていったのではないだろうか?繊維製品や陶器製品には、スペインの製品と類似したものが多く見られる様に、建築にもまた類似した様式が見られる(モンレアーレ大聖堂1174の連続交差アーチの例)。後ウマイヤ朝政権の崩壊(1031年)の前後の政治的不安定な時期以降、有力なパトロンを求めて旅立った文化の立役者たちそしてその後継者たちは、スペイン北部と同様に、シチリアにも集まったのではないか?

軍事的に優位にたったスペインのキリスト教国の君主たちもそうであったが、ノルマン人の王国の君主たちは征服後、アラブ人の官僚や文化人たち(文化そのもの)を優遇している。それは彼らがアラブ人やイスラム教を愛した訳ではなく、その文化レベルの高さ、洗練された美術品の美しさ、技術レベルの高さに驚嘆、魅了されたに他ならない。


アラブ文化を継承した、それらのキリスト教国は、西欧への文化の橋渡しをすることになっていく(12世紀ルネサンス)、、、、、。 スペインのコルドバの後ウマイヤ朝政権の崩壊(1031年)による文化の拡散はその契機となったのではないだろうか?(文化人の集中と拡散)

このテーマは少し時間をかけて探求するべきだろう、、、、、、続く。
モンレアーレ大聖堂(1174−)の連続交差アーチ
図版出典:http://www.fujiso.com/

05/08/21
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