ターイファス(タワイフ)の時代に舞台となった都市の歴史 part4 cf. サラゴサ バレンシア トレド グラナダ バダホス コルドバ

○セビーリャ
タイファの勢力図 主な出来事
ローマ時代 ローマ人によってヒスパリスとイタリカという植民支が10?をおいて建設される。イタリカは五賢帝の内のトライヤヌスとハドリアヌスを輩出されたことでも有名。セビーリャにはローマの遺跡は殆ど残っていないが、イタリカには円形劇場、城門等の遺跡をとどめる。
西ゴード時代
560-711
イタリカは衰えるが、セビーリャは繁栄して、大司教の所在都市となり、七世紀前半には聖イシドルスを輩出した。
アラブ時代(植民地)
712-755
ここを征服したアラブはこの都市をイシュビーリアと呼び、そこからセビーリャという言葉が生まれた。
712年ムーサー指揮下のアラブが占領、彼の子のアブドゥルアズィーズがここを首都とする。
718年次の総督フッルがコルドバに首都を移す。
征服者のアラブ(バラディーユーン)はこの地に多く定着する。
740年代にシリア南部出身のラフム族のアッバードがこの地域に定着する。

アラブ時代

(後ウマイヤ朝)
755-912

755アブド・アッラフマーン1世、総督ユースフを破り後ウマイヤ朝のアミールとなる。セビーリャ及び周辺地域のアラブ軍は、アブド・アッラフマーン一世の政権獲得に協力するが、アブド・アッラフマーンは、シリアから移ってきたウマイヤ一族とそのマワーリー(シャーミーユーン)を重用し専制君主下をめざし、バラディーユーンを権力から遠ざけた為、反目関係になる。
763年ヤフスブ族アラー・イブン・ムギース(バラディーユーン)がアッバース朝のカリフ、アル・マンスールからアンダルス総督任命状と軍資金を受け取り叛乱を起こす(セビーリャ地域のアラブとベルベル同調)→アブド・アッラフマーン一世の辛勝。
続く766年、770年代ヤフスブ族叛乱。
844年10月ノルマン人の急襲54隻の船団、略奪する→コルドバ朝の反撃(アラブ、ベルベル、旧西ゴート貴族)で撃退(30隻の船団に火を放ち、1000人以上を殺害捕虜)*この時旧有力西ゴート貴族カスィー家のムーサの息子ルッブ、戦功を認められ人質から開放され、アブド・アッラフマーン二世の愛妾の一人アジャブが与えられる。
*アブド・アッラフマーン二世、大西洋の沿岸に見張り台(リバート)を建設させ、セビーリャに造船所(ダールッ・スィナーア)を建設し、多くの軍船を建造して大西洋をパトロールさせる。
858年、62隻からなるノルマン軍を撃退。
この頃、アブド・アッラフマーン二世は、セビーリャに城壁を築き、改宗者の激増に応じてマスジドを拡張する。
9世紀末、有力アラブ、ハルドゥーン家、アラブと西ゴード王ウィティザの子孫、ハッジャージュ家勢力を伸ばし、ウマイヤ朝代官に圧力をかける。
889年ハルドゥーン家のクライブ叛乱。→有力アラブ族、ムワラッド、コルドバウマイヤ政権の闘争。
902年ハッジャージュ家イブラーヒーム、ウマイヤ朝を攻撃→敗北→ウマイヤ朝に献納
*イブラーヒームはセビーリャで無冠の王として振る舞い、官僚を自由に任命し、文化人を保護する。911年没。

アラブ時代

(後ウマイヤ朝)
カリフ国の時代
912-1023

913年アブド・アッラフマーン三世軍隊を派遣し、セビーリャを制圧。
ハカム2世の治世(在位961-976)の頃、アッバード家が台頭する。セビーリャ領地の最大地主。一族の
イスマーイール・イブン・アッバードは、ハカム2世や宰相アル・マンスールの知己を得てコルドバのイマーム(礼拝指導者)、セビーリャのカーディー(裁判官)に任命される(1023年引退)。
1002年アル・マンスールが死亡し、息子のアブドゥルマリクの宰相の時代から、カリフの実権は失われ、コルドバの政情は不安定になり、内乱時代が始まる。
1016年ハンムード家(イドリース朝の子孫)のアリー・イブン・ハンムードがカリフを襲名。
1018年アリーの兄カースィム(セビーリャの代官−1016-1018)が第18代カリフを襲名→21年甥のヤフヤー(第19、23代カリフ)によりコルドバから追放、セビーリャに戻る→23年再びコルドバでカリフ(第20代)→同年再びセビーリャに戻る。
ターイファス時代
1023-1091
1023アッバード家のアブル・カースィム・ムハンマド(イスマーイールの息子)、コルドバ市民に追われた第20代カリフ、カースィム(ハンムード家)の入城を拒否。セビーリャ富裕層市民の寡頭体制の樹立。→後、有力家系、ズバイディー家、ハッジャージュ家、ハウザニー家、ヤリーム家、アラビー家などのメンバーを追放投獄し、単独指導権を確立する。
1031年最後の直系のカリフ、ヒシャーム3世の廃位、ウマイヤ朝の終焉
1035アッバード家のアブル・カースィム・ムハンマド、偽ヒシャーム二世を捏造し、カリフとして擁立する。→周辺有力ターイファス王たちに、このカリフを認めさせる。→偽ヒシャーム二世は、1060年までマスジトの礼拝の説教で名前があげられ、1069年までセビーリャ発行の金貨に名前が刻まれた。
1042年アブル・カースィム没、アル・ムウタディド(アブル・カースィムの次子アッバード)即位。→アッバード朝周辺諸国併合領地拡大し、統一国家再建を目指す。
1066年フェルナンド1世のセビーリャ領への侵攻に対し、貢納の支配と聖イシドルスの聖遺体の引き渡しに同意する。
1069年アル・ムウタディド死亡、ムハンマド・アル・ムウタミド即位する(在位1069-91)。彼は文化を保護し、セビーリャはこの時代の文化の中心地になる。
1070年アル・ムウタミド、コルドバ併合。アルフォンソ6世に高額の代賞金を払い援助を得、グラナダを攻める。
1078年バルセローナ伯に金貨3万ディーナールで軍事援助を要請し、ムルシアを併合する。
1086年ザッラーカの戦い、アル・ムラービトゥーン朝の支援を受け、アルフォンソ6世に勝利する。
1088年アレードの戦い、アル・ムラービトゥーン朝の支援を受け、アルフォンソ6世に勝利する。
1091年、アル・ムラービトゥーン朝、アル・ムウタミドを破り、アッバード朝滅亡
アル・ムラービトゥーン朝時代
1091-1156
 
アル・ムワッヒドゥーン朝時代
1156−1248

*主たる参考文献/アラブとしてのスペイン 余部福三


05/09/25//2006/01/29
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