○コルドバ |
タイファの勢力図 |
主な出来事 |
ローマ時代以前 |
イベリア人が都市を築く。 |
ローマ時代 |
スペインで最初に建設されたローマ人の都市と謂われる。ローマ名、コルドゥバ。スペイン南部バエティカ州の首都。多くのローマ人植民者を受け入れる。セネカ(ストア派、ネロの師)等の知識人を輩出。グアダルキビル川の石橋はこの時代に建設された。 |
西ゴート時代 560-711 |
西ゴート王国バエティカ州の中心都市(首都はトレド)。最後の西ゴード王ロデリックはここの総督であった。 |
アラブ時代(植民地) 712-755 |
スペイン総督府が置かれた都市。 718年総督フッルがセビーリャからコルドバに首都を移す。 アラブ人とベルベル族が市内と周辺に土地を獲得し、多く定着する。
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アラブ時代(後ウマイヤ朝) アミール国の時代755-912 |
シリアから逃れたきたウマイヤ朝の王子、アブド・アッ・ラフマーン一世が後ウマイヤ朝を建国。 アミール国時代の首都。
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アラブ時代(後ウマイヤ朝) カリフ国の時代 912-1031 |
バグダードのアッバース朝の権威が失墜し、ブワイフ朝の傀儡となった時代。エジプトのファーティマ朝がカリフ国を名のるが、それに対抗してアブド・アッ・ラフマーン三世はカリフを自称する。カリフ国時代の首都。彼と彼の息子ハカム二世の時代がウマイヤ朝の最盛期。 ↓ アル・マンスール(アーミル家)の時代/バスク人の国家ナバーラ王国との関係が深くなる時代→相関図 ↓ マンスール後のアーミル家の系譜 マンスールの死後(1002-)、後ウマイヤ朝の分裂は急速に進む。マンスールの生存中に北部のキリスト教国を服従させ、北アフリカにまで勢力範囲を拡大させた後ウマイヤ帝国は、僅か30年の間に崩壊し、自滅の道を進むことになる。 ↓ 長子アブドッラー(母:ジェルファー)は989年叛乱を起こし990年にマンスールにより処刑。 次男アブドゥルマリク(母:ジェルファー)。ラカブは、アル・ムザッファル(勝利を授かったもの)。-1008没33歳。 アーミル家のサカーリバが政治の実権を握る。 ↓ アブドゥル・マリクの弟シャンジュール(母:アブダ)。ラカブは、アル・マームーン(安んじられるもの)。-1009没。 有能であったが、実権を握ってカリフの様に振る舞い、ベルベル人を重用することにより、ウマイヤ家、官僚貴族、市民の反発を強めた。 ↓ 1009年反アーミル家革命 シャンジュールは、1009年1月、レオンの内乱に介入する為に出兵したが、その間隙にぬって1009年2月にコルドバでクデーターが起こり、トレドからコルドバに引き返す途上で主要な軍団の兵士は離反し、反乱軍により殺害された(1009年反アーミル家革命)。このクーデターにはシャンジュールの異母ジェルファーが関わったと謂われている。彼は僅か20歳そこそこで生涯を閉じることになった。 ↓ アル・マフディ(ムハンマド2世/第11・13代アミール)を擁立した、コルドバの市民軍は、ヒシャーム2世(第10・14代アミール)に譲位を迫り、アーミル家一族を殺害したが、サカーリバは無抵抗で降伏。 政権混乱・カリフ乱立の時代の始まり→系譜 *ザフラー宮殿の西隣のアル・アーミリーヤと宮殿政治都市アル・マディーナトゥッ・ザーヒラは、この時に破壊され、跡形もなくなるほど徹底的に破壊された。また、*この叛乱で、アーミル家の生残の一部は、サラゴサなど北部の都市に保護を求めて逃れ、アーミル家のマワーリーであった多くのサカーリバは東海岸に逃亡し、住民を抑えて小政権を樹立するようになる。特に、バレンシアでは、純粋なサカーリバだけでなく、アーミル家のマワーリーであったフランク人やバスク人も集って高い地位を占めるようになった。そして、多くの学者、官僚、裕福者、職人もここに避難し、壮麗な建物や庭園が建てられ、コルドバと同様の洗練された暮らしが行われるようになった。 ↓ 革命後のコルドバ ベルベル族とコルドバ市民の対立激化 ↓ アル・マフディ(ムハンマド2世/第11・13代アミール)を擁立したコルドバ市民とアル・ムスタイーン(スライマーン/第12・15代アミール)を擁立したベルベル族の対立。→クライシュ族の系譜参照 当時後ウマイヤ朝の臣従国であったカスティーリャ伯サンチョ・ガルシア(995-1017)はベルベル族側に加勢し、ベルベル族とカスティーリャの連合軍は、1009年11月にコルドバを襲い市民軍を敗る。 アル・マフディ(ムハンマド2世)は逃れる。 ↓ アル・ムスタイーン(スライマーン)は正式にカリフとなり、ベルベルと市民の融和に努めるが、難航する。このときザフラー宮はベルベル族の拠点となる。 ↓ 1010年5月シャンジュール時代の辺境軍司令官、ワーディフ(サカーリバ)は、バルセローナ伯ラモン・ブレイと共謀し、コルドバを襲撃、ベルベル族軍はこれに対し出陣するが、コルドバ市民はバルセローナ兵と共にザフラー宮、ベルベルの財産を略奪する。ワーディフは アル・マフディ(ムハンマド2世)を殺害、ヒシャーム2世を復位させるが、ベルベル族との和解に失敗。 ↓ コルドバを逃れ、アンダルス南部のマラガ、エルビーラ、ハエン、アルヘシラスを占領したベルベル族はコルドバを包囲し1010年11月にザフラー宮を占領し、軍営を置き、コルドバを2年半に渡って包囲。1013年5月、コルドバ市民降伏。ベルベル族はヒシャーム2世を退位させ、アル・ムスタイーン(スライマーン)を復位させる。 ↓ ベルベル王朝の成立/コルドバ北部や東海岸の諸地域はこれに従わず独立し、小国分立(ターイファ)の時代が始まる。 ↓ 1016年ベルベル系のハンムード家のアリー・イブン・ハンムード、コルドバのベルベル族を破り、アル・ムスタイーン(アブド・アッラフマーン三世の曾孫/15代アミール)を処刑し、カリフ位(16代アミール)に就く。 ↓ コルドバ市民とベルベル族の和解に努め公正な統治を行なっていたが、1018年上辺境の諸豪族と東海岸のサカーリバは、アブド・アッラフマーン三世の別の曾孫、アル・ムルタダー(アブド・アッラフマーン4世)をカリフ(17代アミール)に擁立したことから、焦ったアリーは、軍資金集めの為市民を圧迫し、宮殿のハンマーム(浴場)でサカーリバに殺害される。 ↓ 1018年弟、アリーの殺害を聞きつけ、コルドバに駆けつけカリフ(18代アミール)を自称する。*アル・ムルタダーのカリフ擁立は失敗。 ↓ 融和政策で、サカーリバと和解。 サハラ砂漠以南の黒人を大量に兵として採用。 ↓ 1021年、弟アリーの息子ヤフヤ、サブタで反乱を起こし、カリフ(代19代アミール)を自称する。 ↓ カースィム、セビリアに逃走し、カリフ位を主張。 ↓ 1022年、ヤフヤ、ベルベルによりコルドバを追放される。 カースィム、ベルベルにより、コルドバに迎えられる(20代アミール)。 ↓ ヤフヤ、マーラガに逃走するも、カリフ位を主張し、アルヘシラスとタンジャーをカースィムから奪う。 ↓ カースィム、ベルベルの傀儡となり、コルドバのベルベルの、市民への掠奪、暴行が横行する。 ↓ 1023年、コルドバ市民軍、カースィムとベルベルを追放。 カースィム、セビリア市民からも入城を拒絶され、ヤフヤの軍に捕らえられ、マーラガに投獄される。 ↓ 1023年コルドバ市民アル・ムスタズヒル(21代アミール、13代アミール、アル・マフディーの弟)をカリフとして擁立。 ↓ 47日後、市民革命により、アル・ムスタズヒル殺害 ↓ アル・ムスタクフィー、市民によりカリフ(アブド・アッラフマーン三世の曾孫/22代アミール)に擁立される。 ↓ 1025年、ヤフヤ、コルドバ奪回(23代アミール)、アル・ムスタクフィー逃亡。 コルドバを掌握できず、半年後マーラガに帰る。 ↓ 1027年、コルドバ市民、ヒシャーム3世をカリフ(24代アミール/アル・ムルタダーの兄)に擁立。 ↓ 1031年12月、コルドバの市民が革命を起こし、カリフ(第24代アミール)、ヒシャーム3世(ウマイヤ家の血筋)は退位させられ、カリフ制は廃止、カリフ一族はコルドバを追放。 内紛の下、後ウマイヤ朝は名実共に滅ぶ。 ↓ コルドバ市民、コルドバ共和国建国
ウマイヤ朝カリフの家系図 (クリックで拡大)
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ターイファス時代 コルドバ共和国の時代 1031-1070 |
コルドバ共和国:市民自治政府の時代/寡頭政府 *この時代のコルドバ官僚貴族の家柄出身の著名な文化人たち アブー・アーミル・イブン・シュハイド(-d1034)/詩人:「霊魂と魔霊」 アリー・イブン・ハズム(-d1063)/哲学者:「マラーディブル・ウルーム(諸学問の分類)」法学者:「アル・ムハッラー」神学者:「アル・ミラル・ワン・ニハル(諸共同体と諸宗派)」「ジャムハラ(集成)」文学者:「タウクル・ハマーマ(鳩の首飾り)」 イブン・ハイヤーンIbn Hayyan/歴史学者:「Muqtabisムクタバス(ムクタビス)」(ウマイヤ朝史)「マティーン」(同時代史) ↓ 1064年頃/寡頭政府の有力者アブドゥル・マリクが、当時最有力市民イブヌッ・サッカーを暗殺し、独裁体制をとる。 ↓ 1070年秋/トレドのズンヌーン朝のアル・マームーンがコルドバ共和国に進軍。アブドゥル・マリクはセビリアのアッバード朝のアル・ムータミドに支援を請う。アル・ムータミドは、キリスト教徒を含む1300騎をもってズンヌーン朝を撃退させたが、アッバード朝軍はそのままコルドバを占領し、アブドゥル・マリクはアッバード朝の捕虜となる。 ↓ アッバード朝の統治/コルドバ代官はアル・ムータミドの息子 ↓ 1075年1月/トレドのズンヌーン朝のアル・マームーン、コルドバを占領。アル・ムータミドの息子、戦死。半年間コルドバを統治し、ここで没す。 ↓ 1075年/セビリアのアッバード朝のアル・ムータミドの再占領。
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セビリア王国の統治 アッバード朝時代 1070-1091 |
アッバード朝の統治/コルドバ代官はアル・ムータミドの息子 ↓ 1091年アル・ムラービトゥーン朝の指導者ユースフ・イブン・ターシュフィーンに、コルドバ市民開城。アル・ムータミドの息子、戦死。
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アル・ムラービトゥーン朝 時代 1091-1156 |
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アル・ムワッヒドゥーン朝 時代 1156−1248 |
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