特別な時代のはじまり 


 アラブは中世イベリア半島(スペイン)の征服者だったのか?解放者だったのか?

 710年、イベリア半島の西ゴート王国でロドリゴという貴族が大方の貴族の賛同を得て王座に就いた。このイベントは三代前に国王であったチンダスビント王の一家の再興のはじまりを記念するものとなるはずであった。ところが、、、、、、。

 西ゴート王国は、554年現在のスペインのトレドに都を移して以来、イベリア半島を支配してきた。554年にスペインに侵入した頃の西ゴート族の人口は約20万人、半島全体の人口は約800万人であったと謂われる。そうであれば西ゴート王国は、3%に満たないゲルマン人が、のこりの97%を支配する軍事国家であったわけである。

 イベリア半島は紀元前のギリシャ・フェニキア時代、カルタゴ帝国時代、そしてあの有名なハンニバルとローマ帝国の決闘を経てローマ帝国に編入され、帝国の西方最重要州となり、皇帝さえも輩出した地域であった。ローマ帝国の制度疲弊と同時におこる、キリスト教による価値観の変化、ゴート族も含むゲルマン人の侵入、によりイベリア半島もまた衰退する。そういった背景の中、ヴァンダル族による嵐の様な略奪と破壊の後に、侵入したのが西ゴート族であった。そういった経緯からイベリア半島はけっして本来、断じて帝国の一地方の田舎などであろうはずはなかった。ファニキア時代以前に遡る歴史は、有能な人材そして高い文明と文化を培ってきたに違いなかった。、、、、、が西ゴート王国時代、イベリア半島は世界の文明・文化の中心とはなりえなかった。優秀なイベロ・ローマ市民は、その能力を生かす場も与えられず、差別的な待遇を受け、西ゴートの王たちは結局、帝国時代にイベロ・ローマ市民が築き蓄積した財産を食い潰していったにすぎなかった様に思える(国家の貨幣さえ、鉱山を開拓することもなく、ローマの金貨を溶かして鋳造したほどに、、、)。自らなにかを創造するにはあまりにも過去の遺産は高度すぎ豊かすぎたのかもしれない。敢えていえば、唯一、力を蓄えたのはカトリック教会とその文化だけであった。

 幸運なことにも、トレドに遷都してから、150年もの間、強豪なライバル国家は現れず(フランクもピレネーを越えその勢力を伸ばす力はまだなかった)、王権のカトリック教勢力と連鎖的協働により政権を脅かすほどの大規模なイベロ・ローマ市民による暴動も起こらなかった。しかしながら、創造なき消費社会を襲ったのは、人ではなく、自然の猛威であった。そして7世紀末の旱魃、飢饉、疫病は、創造無き社会にとっては、致命的であった。生活の安全と安定のために、敢えて容認した西ゴート族の軍事力も、抑圧的社会の中で心の支えとなったカトリック教も、その前には無力であった。民心は西ゴートの権力者から離れ、安定した生活の保障を求めていた。時の政権とカトリック教会は、交易活動により相対的に豊かになったユダヤ教徒にその矛先を向け、民心の非難をそらし、かわそうとしたが、それも空しかった。

 そうしてビティサ国王の死がまず変革の引き金となった。カトリック教の聖職者たちは、ビティサの息子アヒラを擁立し国王にすえたが、貴族たちは、バンバ家のビティサの息子たちを王には選ばなかったのである。そこに登場したのがチンダスビント家のロドリゴであった。アヒラ一派は権力の失墜を恐れ、こともあろうに、当時北アフリカを征圧していた、世界で最も勢いのあったアラブ軍に、軍事支援を打診したのであった。北アフリカ征服で勇敢なベルベル人たちを傘下に入れることに成功したムーサは、イベリア半島征服に消極的であったという。名将であったムーサのことであるから、戦士たちの連戦の疲労も考え、王国内部の陰謀に兵力を裂く気にはならなかったかもしれないし、疲弊した西ゴート王国にさしたる魅力も感じなかったのかも、或いは内部抗争で疲弊したところで戦闘を仕掛けるつもりであったのかもしれない。ところが、これに思いもよらない別の因子が働き、状況は一変することになった。法外に抑圧されていたユダヤ教徒である(彼らの仕掛けられた仕打ちは681年のトレド宗教会議に詳しい)。彼らは、ムーサにイベリア半島の魅力を説き、彼の心を揺さぶったのであった。彼の部下ターリクによるイベリア半島征服はこうして始まった。

 ターリクの半島上陸後の進撃は、ユダヤ教徒の案内によるものとされている、後のユダヤ教徒差別による作り話かもしれないが、仮にそうだとしてもその種はカトリック教会が自ら蒔いたものであろう。そうでなかったとしても、その後のターリクの快進撃をみると、少なくとも民心が西ゴート王朝から完全に離れてしまっていたことは明らかである。イベロ・ローマ市民はさしたる抵抗をすることもなく、主要な都市は次々と開城していったからである。これはムスリムの軍勢が大軍隊だった訳でも、極端に強かった訳でも、西ゴート戦士が150年間に平和ボケしていたわけでもなく、西ゴート族に支配されていたイベロ・ローマ市民に西ゴート族と共に戦う気が無かったとしか思えない。イベロ・ローマ市民は150年前、西ゴート族が侵攻してきたその時と同じ態度をとった訳である。彼らにとっては、異教徒アリウス教徒であった西ゴート族を支配者として戴こうが、イスラーム教徒を戴こうが、要はより安全で豊かな生活を保障してくれる支配者を望んでいたのではないだろうか。西ゴート族の支配者たちは完全に見放されてしまっていた。

 ロドリゴ新王にとっては、王位に就いた時期は、そういう訳で、とても不幸な要因が重なってしまった。ロドリゴは、711年7月19日にグアダレテの戦い(場所には諸説あり)で、兵力10万(これは西ゴート族の総兵力ではないか?戦場で戦った数ではないかもしれない)でターリクの部隊1万2千(1万から1万5千など諸説あり)と激突することになるが、カトリック教聖職者が擁護するアヒラ派の部隊がこれに参加しなかったこともロドリゴにとっては不幸な因子であった。ロドリゴはこの戦いに敗れ戦死した。

 アラブがこの時期に勢力を持たなかったら、或いはロドリゴ政権による、西ゴート王国の改革が内部に興っていたかもしれない。しかしながら、結局西ゴート王国は内部分裂により自滅の道を選び、カトリックの聖職者たちはそれに加担してしまったのであった。ユダヤ教徒への仕打ちを含め、自らの不徳が最もあってはならない結果を導いてしまった訳である。

 そうして、イベリア半島はアラブの支配下で入った訳であるが、イベリア半島にアラブ人が大挙して押し寄せたわけではない。西ゴート王国の時代、西ゴート族は部族ごと、イベリア半島に侵入し、居座ったわけであるが、アラブにとってイベリア半島は帝国の辺境地の一つにすぎなかった(少なくとも最初の40年間は)。西ゴート王国を統治した属州総督の時代、アラブ人とベルベル人の人口は4万から5万人であったといわれているが、これは西ゴート族の人口のさらに4分の一に過ぎない。スペインがイスラームに征服されたといっても、イスラーム教徒として侵入してきた人口は僅か0.5%にすぎなかったわけで、その後も少なくとも11世紀のムラービト朝の時代まで、大挙してアラブ人やベルベル人のイスラーム教徒が押し寄せてきたという史実はない。アラブの支配者たちは、抵抗する西ゴート族の勢力は駆逐したものの、キリスト教徒であるというだけの理由で虐殺したことはなかった(政権に対する反逆の場合に限られた)し、カトリック教会や司教の制度はその後も残されたままであった。さらに、キリスト教徒の集団における内部の自治権や司法権もアラブの法に抵触する以外はそのまま認められていた。つまり、アラブは嘗てローマ帝国が属州を支配する手法と同じ方法でイベリア半島を支配したわけであり、その安全保障のための人頭税を徴収したのであった。結局、前西ゴート国王ヴィティサの弟は、トレド大司教となったし、例外はあるものの、アラブに従う司教座はそのまま温存(イスラーム教徒への布教活動は禁止されたものの)、され、人口の99%超はキリスト教徒のままであった。ある意味ではイスラーム教徒は西ゴート王国の政権からの解放者であったかもしれない。革命は自らの手ではなく、黒船によって行われたとも言える。

 こういった状況から、新しい特別な時代は始まった。、、、、、ということは、理由は様々であったであろうが、スペインをイスラーム教の国にしたのは、他でもないキリスト教徒であったイベロ・ローマ市民自身の自発的な改宗の結果であったわけである。それを考えると、後のレコンキスタ(国土回復運動)と呼ばれる出来事は、いったい「誰が、誰に対して、国土を回復していったのか?」を考えざるを得ない。

 続く、、、、、次回は、イスラーム指揮下のキリスト教徒軍とムスリム(イスラーム教徒)を支配したキリスト教徒とユダヤ教徒

2006/09/03//2006/09/10修正追記
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