ノルマン・コンクエストの不思議(そしてその後の文化)


ノルマン・コンクエストの様子を表したバイユー・タペストリーには、軍馬の図柄が大量に刺繍されている。ノルマン・コンクエスト(1066年)の時代には、軍隊の最重要戦力は騎士であり、従って最重要軍備は馬であった。しかもこの馬は軍事用に特別に飼育され、強さと速さを併せ持ち、起動作戦に適し、戦場でも驚かない馬であった。そのような馬は極めて高価で、在来小型種の30倍の値がつけられた。当時のノルマン人にはこの種の馬を大量に買いつける資金があった。
、、、、、、問題はその馬がどこから購入されたかである。その馬はアンダルシア種(アラビア種)の明らかな特徴をもっているスペインから購入された馬であった。
参考文献:ノルマン人その文明学的考察
参考: 936年からアブド・アッラフマーン三世により建設されたマディナ・アッ・ザフラーには巨大な厩舎があった。

建築
ノルマン・コンクエストの1066年から1100年までの11世紀末の僅か30年の期間に大量の教会が建て替えられた。
それがノルマン様式である。

主要な大教会
カンタベリー司教座教会
リンカーン司教座教会
オールド・セイラム司教座教会
ロチェスター司教座教会
ウィンチェスター司教座教会
ロンドン司教座教会
チチェスター司教座教会
ダラム司教座教会
ノリッチ司教座教会
バリー/セント・アウグスチン教会
カンタベリー/セント・アウグスチン教会
セント・オルバンズ/修道院教会
バリー・セント・エドマンズ/修道院教会
イリー/修道院教会
グロスター/修道院教会
ティウクスベリー/修道院教会
ヨーク、セントマリー/修道院教会
など
*上記の教会の11世紀〜12世紀に建設された古い部分に連続交叉アーチが残存していることに注目!
12世紀にはピーターバラの様な大聖堂に加えて、殆ど全ての町や村の教区教区教会が建造され、改造された。
*
キャスル・エーカー小修道院参照


R.H.C.デーヴィスはこれを、イングランドにすでに盛んな建築産業が存在していた根拠としている(以下)。
「明らかにこのような膨大な作業は、イングランド に、すでに盛んな建築産業が存在していなければ、達成されなかったであろう。したがって新しい教会の建築にたずさわった技術者も労働者もともにイギリス人であったと思われるが、設計はまさにノルマン様式であり、城郭の場合と同じように、ノルマンディーよりさらにノルマン的であった。1066年以前のノルマンディーで建設されたり改造されたた大教会が僅かしかなかったかを知るとこれは一驚にあたいする。、、、、、、中世建築の中心課題であった、いかにして教会の最高所に石の屋根をかけ、それを支えるか、しかも同時にその壁面に窓や、開口部をいかに安全に設けるか、という問題は1093年からほどなくダラムにおいて解決を見た。交叉ヴォールトとリブ、横断尖頭アーチの組み合わせが決定的なものであった。歴史家の中には、この技術的な業績がイタリアやフランスでのような文化の先進地域でなく、イングランドの最北の前哨地点で最初に達成されたことは奇妙であり、信じ難いとさえ考えた者もある、、、、(ノルマン人より)」

今まで幾度か述べてきたが、突如として新たな様式が登場する時には、なんらかの外的要因が働いたことを疑ってみるべきである。R.H.C.デーヴィスは、すでにイングランドに盛んな建築産業が存在していたとするが、建設するべきものがないところに、何故に、産業だけが先行して存在し得るのか?それだけ大量の作業量をこなす技術者が、それまでなにによって彼らの糧をえてきたというのだろうか?百歩譲って数量的な人員がいたとしても、建築の様式は資金があったとしても、魔法のように一晩にして誕生するようなものではない。

「イタリアやフランスでのような文化の先進地域」というが、当時のヨーロッパでそれを遥かに凌ぐ文明地域があったことを思い返してほしい。それこそが、12世紀にヨーロッパに文化的・文明的革命を促すことになるの震源地アンダルシア(スペイン)である。優れた軍馬をスペインから輸入しながら、文明は例外とでもいうのだろうか?

1009年の反アーミル家革命により実質的に後ウマイヤ朝政権は内部分裂により崩壊する。しかしながら、その政権の崩壊によりコルドバを中心し当時の西欧随一の繁栄を誇ったアンダルシアの文明文化は人材と共に北方に拡散してゆくことになる。1066年頃のスペインでは、分裂した小国にコルドバのイスラーム・スペイン文化がもたらされ、スペイン全土が洗練されたアンダルシア文明で覆われた時期であった。(例:サラゴサのアルハフェリア宮殿
)


度々勘違いされるが、これらの小国はイスラーム国家ではあったが、その住民が全てイスラーム教徒であった訳でもアラブ人であった訳でも無い。Bullietの推測によれば、北部スペインのイスラーム国ではこの時期において少なくとも20%はキリスト教徒がいたはずであるし、アラブ人やベルベル人は人口構成の上では少数派であったから、混血はあったとしても、殆どの住民の容貌は、南フランスの人々とたいして違わなかったはずである。(後ウマイヤ朝のカリフ、アブド・アッラフマーン三世でさえ、その容貌は濃紺の目と赤味がかった金髪で目鼻だちははっきりしていたということをごぞんじだろうか?)

1066年に遡る約130年前の936年からアブド・アッラフマーン三世により建設されたマディナ・アッ・ザフラーでは1万人の労働者が雇用されていたという。また資材や人材は遠くエジプトやシリアからも輸入されていたという史料もある。次のカリフ、マディナ・アッ・ザフラー建設の総指揮にあたったアブド・アッラフマーン三世の息子ハカム2世の時代には続けてコルドバのモスクの拡張が行なわれ、さらに続けて実質的な権力をカリフから奪った宰相マンスール(-1002)は、自身の宮殿とコルドバのモスクの三度目の拡張工事という大事業を行なっている。おそらくは、この約60年の間、建設産業はヨーロッパの他のどの地域よりも成長し、人材も技術もその極みに達したことであろう。そしてその人材と技術は、1035年にカリフ国が崩壊し小国に分裂した時期に、今度は小国の城と宮殿を建設する為に、各地に拡散伝播し、さらに発達させられていったことは仮定するに困難ではない(合わせて130年の間に熟成した技術となった)。

そうした建設産業の中で優れた技術を体得したイスラーム政権下のキリスト教が自らの技術を頼りにフランスやイギリスに軍馬と共に渡り、、そしてまたフランス人と同じ容貌をしたイスパノ・ローマ系イスラーム教徒もまた、レコンキスタという略奪戦争により奴隷として、或いは自発的に渡り、改宗してキリスト教徒なり、技術者として能力を発揮したのではないだろうか?

1066年から1100年の間、大規模かつ斬新な建築を短期間になし得る人材と技術力を持つ地域はスペインをおいて他にはあり得なかったはずである。フランスロマネスク建築様式とスペインアンダルシア様式の融合、、、それがノルマン様式ではなかったか、、、、? そうすれば、イングランドのノルマン様式がフランスのノルマンディー地域よりさらにノルマン様式的であったというR.H.C.デーヴィスの指摘は自明の理であると言えよう(スペインアンダルシア様式がよりはっきりと表現されていた)。



2006/09/16追記//2006/09/17//2006/09/25

inserted by FC2 system