クリュニー修道院とイスラム文化 part9


クリュニー修道院最盛期の運営財源の背景

クリュニー修道会は、聖ベネディクトゥス戒律に従う修道会である。ベネディクトゥスは古代ローマ帝国の貴族の出であったが、ローマ帝国が崩壊し荒廃し混迷する時代にあった民衆の為にその一生を捧げた偉人であった。彼は、修道院を建設し福音を述べ大地を耕し、様々な事業を計画的に発展させ管理する修道士を生み出した。また学校、図書館、古典、哲学、芸術、薬学、神学の保存と研究も彼らの仕事であった。
ベネディクトゥス自身は、いったん古典・学問を習得した上で、敢えてそれを忘れキリストに身を捧げた訳であるが、「ひたすら祈り神に奉仕する」その無垢で美しく純粋な精神は、一方で思索なき宗教的高揚感を生み出す土壌を作り出してしまった。クリュニー修道士はひたすら祈り、描き、歌った。そしてその五官に訴える初原的感覚的身体的快楽は、狂信的な熱狂を生み出した。そうして無垢な精神は迷走した。
彼らの教理は分かり易かった、例え文字が読めず書けなかったとしても、聖書を読んだことがなくとも、「知識」は重要ではなかった訳であるから、新興勢力であった騎士団の心を支配するに時間はかからなかった。騎士たちは、魂の救いを求める為に、すすんで修道院に寄進した、、、が、、、、寄進すべきものが必要であった、、、彼らは供物を略奪という行為により達成したのであった。十字軍による異教徒の殺戮は、アンチキリストを討伐し、その財源を没収するという、彼らにとっては二重の利益があった訳である。アンチキリスト者を殺戮することにより、キリストに身を捧げ、その財産を修道院に寄進することにより、死後の安寧を得ることが出来た訳であるから、、、、、。狂信的な騎士たちは異教徒の血の海のなかで宗教的陶酔感という快楽に浸った。

反省なき信仰は時として危険な精神を生み出す。


聖ベネディクトゥス(480-550?)の人物像(グレゴリウスの著作「対話」から)
『尊い生涯を送った人がいた。その名は恵み深い「祝福された者」と呼ばれていた。幼少の頃から円熟した心をもっていた。そのおこないは年に似合わず、どんな欲望にも魂を委ねることがなかった。世俗にあるときにも、気ままにくらすこともできたが、世の中を色褪せた花と蔑していた。彼はヌルシアの豊かな家に生まれ、自由学芸(人文学)を学ぶ為にローマに遣わされたが、多くの者たちが悪徳の道に踏み迷い、滅びにいたる有様をみて、自らも彼らのよう
に知識を求めて、果ては身もろとも奈落の淵に沈んでしまうことを恐れて踵をかえした。そこで学問を断念し、父の家も財産も放棄して、ひたすら神の御旨にかなうことのみを願い、神への奉仕にいきることを決心した。そのために、世を離れて、知識ありて無知、賢明にして無学の人となったのだった。』

「修道院生活における重要な手の労働は、ずっと前に修道院の日常生活から締め出されていた。文学や神学の研究に対しても関心が薄く、反対に芸術、写本、
特に絵画や音楽、建築など、教会を飾るためには、多くの収入を惜しみなく費やした。

「クリュニー修道院は、
莫大なお金を様々な装飾の為に費やした。なぜなら、主を賛美する為には、祈りによってだけでなく、美の奉納、つまり永遠なる神の全能を人々の目に見える形で表現する教会堂建築、そして教会のあらゆる細部にいたるまでの飾りつけをすることが必要とされたからである。」

「貴族たちの間では土地やその他の権利書も寄進の対象とされ、
寄進は私的な贖罪行為とみなされるようになった。」

「永遠の救いに与るためには、、、、死後における煉獄の魂の為に、人々は
「執り成し」を必要とした。魂の永遠の救済に与る為に修道士と祈祷兄弟盟約を結ぶという慣行が定着した」(普通、土地財産を有する者が死後の世界の救済に与るために修道院に寄進をし、修道士と兄弟の誼を結ぶ。執り成しの成果は本人だけでなく一族全体にまで及ぶ)

「修道士たちの祈祷の助けを借りて人々が願い求めたものは、、、、、、修道服を身に着けて埋葬すること、修道院墓地への埋葬等であった」

死者にとって、甦るときまで、聖遺物箱の近くや、裁く神に一日中祈りが捧げられている内陣の側などにとどまることほど、自分の救いにとって幸いなことはないと思われた。だから有力な諸侯は、修道院聖堂の内部に埋葬される許しを得るのである。」

「オディロン院長の時、、、、、騎士たちの間で回心する習慣が一般化した。つまり、死の床で回心して修道服を着るのである。、、、その為には、当然ながら、修道院への施物、つまり寄進あるいは贖罪金が求められた、、、騎士階層を中心とするクリュニーへの莫大な量の寄進は、この『執り成し』のために結んだ祈祷兄弟盟約名簿、つまり「生命の書」なしには考えられないほどである」

「クリュニーの成功と勝利を決定的なものにしたのは、キリスト受難後千年目の日が近づいているという人々の不安と当時の疫病とのまんなかにあって、
すべての勤行が死者の祭礼へ集中していたこと、そしてなお未開状態にあったキリスト教社会
の人々の心に応えることができたことである」

引用文献:修道院/朝倉文市/講談社現代新書

2006/11/03作成
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