カロリング朝と後ウマイヤ朝の微妙な関係
西欧の歴史物語として有名なトゥール・ポワティエの戦いやフランスの中世武勲詩「ローランの歌」では、ことさらにキリスト教徒とムスリム(イスラム教徒)の戦いの構図を強調するが、事はそれほど単純ではない。
カール・マルテルを祖とするカロリング朝と後ウマイヤ朝の関係には当時の混沌として勢力図をみることができる。

778 「ローランの歌」で有名なカール大帝のスペインのサラゴサとバルセロナへの侵攻
実はこの侵攻は、カール大帝が自発的におこなったものではない。当時サラゴサは、後ウマイヤ朝の祖、アブド・アッラフマーンの支配が及んでおらず、支配権は別のアラブの有力者であるフサイン・イブン・ヤフヤとカルブ族のスライマーン・イブン・ヤクザーン・アル・アアラービーにあった。前年の777年にアブド・アッラフマーン一世の包囲を受けた(一時的に撃退した)彼らは、同盟援助国として、フランク王国を選んだのであった。アアラービーは、ザクセンにいたカール大帝のもとに、彼の子と旧総督ユースフの子を派遣し援助を求め、カール大帝はそれに応じて出陣したにすぎない(もっともカールにとっては絶好の機会であったろうが、、、)。ところが、カールの軍勢は彼らが考えていたよりずっと大軍であったため、逆に怖じ気づいた彼らは開城しなかった訳である。あてを失ったカールの軍勢は退却する他はなかったのであるが、その帰路、以前よりフランクに敵対心を抱いていたバスク族に襲撃された事件がその真相であった。ローランの歌の真相は、キリスト教徒とイスラム教徒の抗争ではなく、キリスト教徒とイスラム教徒の共闘の物語であった訳である。
798 「アブドゥラーの反乱」後ウマイヤ朝第2代アミール、ヒシャーム一世の兄弟
初代アミール、アブド・アッラフマーン一世の子であり、第2代アミール、ヒシャーム一世の兄弟である、アブドゥラーは甥のハカム一世(ヒシャームの息子)と王位を争った。アブドゥラーは、当時のサラゴサの支配者バフルールと組み、アーヘンのカール大帝と接見し、同盟援助を要請した。カール大帝は、息子ルイ(ルードヴィヒ)一世を派遣し、彼の指揮下のフランク軍とウエスカを占領したが、後ウマイヤ朝の遠征軍により鎮圧、敗走した。
この出来事も、
キリスト教徒とイスラム教徒の共闘の事件であった。
812 ハカム一世は、使節をアーヘンに派遣しカール大帝と3年間の休戦条約締結するが、この頃「ローランの歌」事件?で登場したアアラービーの息子アイシューンは、フランク王国に亡命し、後のフランク王ルイ一世に仕えている。イスラム教徒の有力者がキリスト教徒の国に亡命した例。
838 ルイ一世の宮廷付き僧侶ボドは、ユダヤ教に改宗(当時サラゴサにユダヤ教徒は非常に多かった)し、サラゴサに亡命する。
キリスト教徒の有力者がイスラム教徒の国に亡命した例。
847 アブド・アッラフマーン二世は、トゥールーズ伯ギョームをコルドバに招き、共闘し、西フランク王シャルル二世にあたった。ギョームは、シャルル二世側の貴族領への攻撃を繰り返し、849年にはサラゴサとトルトーサのアラブ軍と共にバルセローナとヘロナを攻撃した。
キリスト教徒とイスラム教徒の共闘の事実。


2006/11/04
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