中世キリスト教徒の不思議(その1)
885年のノルマン人のパリ劫掠についての修道士アポンによる「パリ(ルテティア:ローマ名)の町の戦い」の中の記述に気になる箇所がある。
その記述は、パリ伯ウード、弟ロベール、そしてサン・ジェルマン・デ・プレ修道院長エーブルの活躍についてに描かれたものなのだが、、、、、

「石や矢が乱れとんだ。橋が揺れきしんだ。ウードとその弟ロベール、司教の甥にあたる、サン・ジェルマン・デ・プレ修道院長エーブルが活躍した。そして、アポロン(太陽神)が西の方に沈み敵勢は退いた」

ウルカヌス(火の神)がネプチューン(水の神)に勝ったのだ。大地も野も、水も大気も燃えた」
「軍神マルスは怒りにその身をゆだね、威たけ高に君臨する」
そして、アポンは修道院長エーブルを「軍神マルスの寵をうける修道院長」と讃える。

彼らは一体、何教徒なのだろうか?


彼らは一神教徒なのか?多神教徒なのか?文面だけを読めば、彼らはローマの神々を信仰する立派なローマ市民と見紛う。何故にキリストを崇める修道院長が異教徒の神、マルスの寵を受けなければならないのか?、、、、、不可解極まる!

宗教としてキリスト教はローマに勝利したかもしれない? しかしながらローマはその文化なしには表現さえも出来ないほどに深く生活の中に深く浸透していた。国家は消滅したが、その思考システムは人々を支配したのかもしれない。ローマの神々は宗教ではなく生活文化として何の違和感もなく溶け込んでいたのだろうか?

中世は本当に不思議な時代だ。同じキリスト教徒であるアリウス派は異端として迫害しながら、同じ口で全く異教徒のローマの神々を讃えるのだから、、、、、、。
、、、そして実はこの精神構造の延長として12世紀ルネサンスもあったのでは、、、、、と思いを巡らせる。
イスラーム世界の文明・文化は、宗教としての意味が宙に消え、ただ中世の西欧の人々の中に生活文化として取り込まれたのではないか?と、、、、、。


彼らが口にするモノが何であるか?それを省みることなく、その性状だけを貪欲に取り込んだのが中世であったのではないか?と、、、、、。

参照:ギリシャ・ローマ神話の神々

07/01/06// 07/01/07追記
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