ノルマン様式の原点の謎 2 Dalmeny - http://en.wikipedia.org/wiki/Dalmeny
 ダルメニー(Dalmeny)は、英国のスコットランドにあるエジンバラ郊外の小さな村である。エジンバラの中心地から13.4kmに位置し、フォース湾に面している。その村の名ダルメニー Dalmenyの語源はケルト語の Din Meini "stony fort"「石造りの砦」(嘗てその町に聳えた「Craigクライグ城」を指す?)とも、或いは聖Eithneに捧げられた聖職者の館を意味するスコットランドゲール語の「Dail Mheinnidh」とも謂われているという。(Wikipediaより抜粋)

 その小さな村に、あり得ない建築が存在している。現在それは、前述に関係なくSt Cuthbert(聖カスバート)が奉納されている小さな教区教会となっている。一見それは1000年以上前に建てられたと謂われるが、何の変哲もない建物に見える。建物の解説にはノルマンロマネスク様式の特長を良く残したの建物とされている。ではなにがあり得ないのか?

 この教会のエントランスは南側にある変則的な構成となっている(通常は西側)。そしてこのエントランスこそがOOPARTS!(あり得ない)なのだ。

 これは7年前にも、本比較建築研究会の「ちょと似すぎ!」シリーズの第3回目「http://hikakukentiku.web.fc2.com/memo/memo27.htm」でも取り上げた。その形態の模倣は間違いのないものだと思われる。
第1に、その形態はケルト人のデザインにはない。
第2に、その形態はノルマンコンクエスト以前には、英国にもフランスにも存在しなかった。
第3に、そのファサードのデザインの現存する最古の例は、786年或いは787年に建設されたスペインのコルドバのモスクにあること。
第4に、入り口の上の連続交差アーチが世界で初めて登場してたのは961年或いは962年のイスラム政権下にあったスペインコルドバのモスクのカリフのゲートであること(皇太子アルハカム2世の設計であると謂われている)。
※一般的な学説では、ノルマンロマネスク様式はカロリング朝のキリスト教的伝統とノルマンの北方的伝統とを源とするとされているが、この形態は全くそれと相反するものである。

 そんなものがどうしてここにあるのか?
 現在のところ、どこをどう探しても前述のWikipedia 以上の情報は出てこない。つまり謎なのだ!
 謎どころか?1000年以上前に建てられたち謂われる、この田舎の教会のファサードがイスラム教の教会ともいえるモスクのファサード、それもカリフ専用のVip玄関のデザインにそっくりであることすら、どの文献にも書かれていない。連続交差アーチの形態自体はノルマンロマネスク様式の代表的な特長の一つとして挙げられているのだが、ノルマンコンクエストの時期に突如として登場し、100年足らずの間に完成されたその様式の出所起源も曖昧でその本質は闇の中であるように思われる。

 そういった中で推測できるのは、この建物がどうやらノルマンコンクエスの時代に建設されたものではないか?ということ。そして1000年前には恐らく海岸線はもっと陸地側にあったであろうこと(この建物はもっと海岸に近かった)、この建物は、港町の中心部にあったであろうこと、そして語源の一つとして考えられているDin Meini「石造りの砦」にみられる様に、この港町は軍港ではなかったかということ。フォース湾に面したその地勢的な位置から英国を制圧する上での軍事的な要衝であったと考えられることである。

フォース湾の形状。フォース橋の南東にダルメニーがある。
 
 どうやらノルマンコンクエストの時期の英国、フランス、スペイン、そしてイタリアの情勢について整理し、当時のヨーロッパの理解した上で大局的に考察する必要がありそうだ。

続く

ダルメニーはエジンバラ市街地の中心から西へ約15km弱の位置にある。 教区教会からフォース湾まで約1kmあまり、教区教会は田園風景の中にある。西の鉄道の西側は新興住宅地のエリア。

南側のファサード(塔の右側にあるのが問題のファサード) 問題のファサード

問題のファサードに瓜二つのスペイン、コルドバのモスクのファサード。ここで連続交差アーチが現れるのはダルメニーの少なくとも100年以上前である。

※ノルマン(ロマネスク様式)は一般的に以下の様に説明されている(平凡社大百科事典より抜粋)
「11世紀にフランスのノルマンディー地方で確立され,ノルマン人のイングランド征服(ノルマン・コンクエスト)以後はノルマン朝イングランド全体に統一的にみられたロマネスク美術の一様式。カロリング朝のキリスト教的伝統とノルマンの北方的伝統とを源とする同様式は,ノルマンディー公国の国家建設とベネディクト会修道院改革運動を背景に,教会堂建築に最も典型的に表れている。ノルマンディーに豊富に産出する良質の截石の組積みによって,厳格純粋な線と壮大かつ律動的な空間が生み出された。」
しかしながら、どうみてもノルマン様式のその特質はノルマンディー地方で確立された様に思えない。むしろノルマン・コンクエスト以降、初期の段階で莫大ななんらかの資金を元にイングランドで壮大な建築的試行が行われ、それがノルマンディー地方に逆輸入された様に思われる。また当時、上記のベネディクト会の最大会派であったクリュニー修道会組織の一部がそれに大きくかかわった様に思われる。


関連参考サイト:
http://hikakukentiku.web.fc2.com/memo/memo27.htm

2012/05/26 /29
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