ノルマン様式の原点の謎 4 Dalmeny -1066年ころのヨーロッパの情勢
ノルマンコンクエスの時期1066年ころのヨーロッパの情勢
※1066年頃のヨーロッパの情勢は現在の勢力図とは随分異なっている。カロリング朝は血統が途絶えてから100年経とうとしており、現在のドイツもフランスも有力諸侯により地方がおさえられ、ドイツ王もフランス王も実質的な統治能力を持っていた訳ではなかった。特にフランス国王はパリを中心としたイルドフランス地域でしか実権を持っておらず、その北部のノルマンディーではノルマン人公爵が実質的には独立したノルマン国家というほどの権勢を誇っていた。さらにノルマンディ地方からイタリアに傭兵として移住したノンマン人であるオートヴィル家のタンクレドゥスの息子たちは南イタリアを占領し、アプリア公となり、さらに、イスラム勢力とも共闘し、シシリー島や南イタリアのビザンティン領を攻略し、独立した国家を築きつつあった。またフランスに隣接したピレネー山脈の南のスペインでは、1031年にイスラム国家であった後ウマイヤ王朝が主要都市を中心とした小国に分裂しており、スペイン北部キリスト教国家も、1030年頃にナバラ王国のサンチョ大王の元で統一されるかに見えたが、結局は大王の息子らに分割相続され、カスティーリャ、アラゴン、ナバラ、レオン王国に分裂していた。スペインではこれらキリスト教国とイスラム強国が宗教の別なく互いに反目し、共闘し、あいまみれた抗争が起こっていた。
地中海を中心とした諸国家の興亡
この時代をキリスト教対イスラム教の対立という2項対立の図式で理解することは困難である。ヨーロッパの勢力図式が大再編成される12世紀がすぐそこに待ち構えているような時期であった。
※この時期パリもロンドンも現在とは全くことなり、ヨーロッパ全土のなかではどちらかといえば辺境にあたり、文明・文化レベルでは後進地である。ノルマンコンクエスト以降イギリスでは教会や修道院の建設が急速に始まる。そういった地で、その事業を担った建築家、工匠、職人はどこからやってきたのだろうか?そもそもその財源はどこから調達したのだろうか?アングロ・サクソンの現地人を鞭打ったところで技術的問題は解決しない。
ノルマン・コンクエストの不思議

■フランス
987年にユーグ・カペーがフランス国国王に選出され、カペー朝がおこっている。当時の国王はフィリップ1世だか、母親のアンヌ・ド・キエフが1066年まで摂政となっている。当時のフランス国王はパリを中心としたイルドフランス地域でしか実権を持っていない国王であった。
カロリング王朝の系図

■イギリス
ウェセックスを拠点としたアングロサクソン朝の王国であったが、一時1016年よりデンマーク王カヌート2世がイギリス国王を兼務し、その息子らが王位を継承していた。その後1042年にウィリアム1世の祖父の妹エマとアフルレッドの大王の直系であるエゼルレッド2世の子エドワード懺悔王が王位についた。1066年、エドワード懺悔王の死後、エドワード懺悔王の妃の兄、ハロルド2世が自らイングランド王に即位した。
ノルマン王朝の系図

■イタリア
ノルマンディ地方からイタリアに傭兵として移住したオートヴィル家のタンクレドゥスの息子たちが南イタリアのアプーリア及びシシリーでノルマン族の一大勢力を確立する。特にロベルトゥス・グイスカルドゥスは南イタリアを統一し、1061年からはイスラム勢力下にあったシシリーの攻略、さらにビザンティンをも脅かした。その後その意思は共に闘った弟のロゲリウス1世に継承される。そのロゲリウス1世の曾孫が神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世である。
※シシリー攻略は別のイスラム勢力との共闘によって成し遂げられた。シシリーの統治機構はイスラム時代のまま継承され、キリスト教徒とイスラム教徒が共存する類まれな国家が建設されることになった。
オートヴィル家の系図

■ドイツ(神聖ローマ帝国)
ザリエル(フランケン)朝神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世の治世(1056-1106)。クリュニー修道院と関係の深かった時のローマ教皇グレゴリウス7世(1073-1085)と激しく抗争した。有名なカノッサの屈辱の主人公が彼。
神聖ローマ帝国とシシリー王国の系譜(大空位時代まで)

■スペイン
ターイファスの諸国家
中世アンダルシアの主要都市
中世スペイン/タイファ時代の国家とその支配者たち
○南部主要なイスラム教諸国
※1031年の後ウマイヤ朝の完全崩壊の後、スペイン南部イスラム国は小国群(ターイファス)に分裂した状態にあった。
これはレコンキスタによるものではなく、後イスラム朝の政治的内乱により自滅したものであった。分裂の契機は1009年の反アーミル家(有名なマンスールの家系)革命にあり、それ以降の後ウマイヤ朝は傀儡政権化していた。クライシュ族の血統のアミールは第24代アミール・ヒシャーム3世(アブド・アッラフマーン3世の曾孫)をもって終結した。
クライシュ族の系図
□トレドズンヌーン朝)→ヤフヤ(アル・マームーン)王
※1072年にレオンから亡命してきたフェルナンド?の息子アルフォンソ6世を保護する。
□サラゴサフード朝)→アフマド・アル・ムクタディル王
※1064年にアラゴン王国サンチョ・ラミレスの侵攻を受ける
□バレンシア(1066年アーミル朝からズンヌーン朝へ)→トレドのアル・マームーン王の統治下に入る
※1065年にレオン・カスティーリャ王国のフェルナンド一世の侵攻を受ける。
※1094年−1099年、エル・シドの統治
□マーラガ及びグラナダズィーリー朝)→バーディース王
□コルドバコルドバ共和国)→市民統治
□セビーリャアッバード朝)→アル・ムウタディド王
□バダホスアフタス朝)→アル・ムザッファル王
※1064年にカスティーリャ及びレオン王国のフェルナンド?の侵攻を受ける。

○北部キリスト教諸国
※後ウマイヤ朝の王室と関係の深かった(後ウマイヤ朝カリフ王室とナバラ王国王室とは親戚関係にあった)ナバラ王国のサンチョ・ガルセス3世(サンチョ大王)がアラゴン王国とナバラ王国を統治(1004-1035)するが、カスティーリャ女王(1029-1035)と婚姻することにより、実質的に三国を統治することになった。ナバラ王が統治する3国は、三人の息子に相続されるが、カスティーリャ王となった息子フェルナンド1世はレオン王女と婚姻することにより、レオン王国をも統治することになった。この時点でナバラ王族がスペインを完全に統治することになる。1066年の時点でのスペイン諸国の王はすべてサンチョ・ガルセス3世(サンチョ大王)の孫。
スペイン諸王朝の系図

□カスティーリャ及びレオン王国→サンチョ2世
※1065年にカスティーリャの王位を継承、1072年に兄弟のアルフォンソ6世に王位を奪われる。アルフォンソ6世はサンチョ2世に追われイスラム国であったトレドのズンヌーン朝に亡命していた。
□アラゴン王国→サンチョ・ラミレス
※1064年に教皇アレキサンデル?(1061-1073)の支援を受けサラゴサを首都とする国フード朝(アル・ムクタディルの治下)に侵攻した。教皇アレキサンデル?は、アキタニア、ノルマンディ、及びシャンパーニュの騎士の参加を得て十字軍の教書を発令、1064年、サンチョ・ラミレスとこの大編成部隊は、フード朝下にあったウエスカとバルバストロを襲撃し陥落させた。
※歴代ローマ教皇(法王)の系譜
□ナバラ王国→サンチョ・ガルセス4世

※当時文化レベルでは西欧で群を抜いていたスペイン、破竹の勢いを誇っていたクリュニー修道会、そしてその二つが係わる1064年の前十字軍がこの謎を紐解くキーワードになろう   続く、、、 アキタニアを調査整理する必要あり!


クリュニー修道院とイスラム文化 part3


2012/06/01
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