Ottoman Turkey/Benedikt Taschen


下記の文章は1965年にBenedikt Taschen社から出版された世界の建築シリーズ第14巻目Ottoman Turkey(シリーズとして未完結のまま絶版)に寄せられた序文からの引用である。 内容は寄稿者のトルコ建築に関する思いを述べているもので、本文の内容とは殆ど関係がない。また内容が凝縮jされ抽象的であるので、或る程度の歴史経緯やトルコ建築に関する知識がないとわかり難いかもしれない。しかし、トルコの建築がル・コルビジェに与えた影響や、ブルーノタウトの晩年に関する記述があり、興味深いので翻訳し、掲載してみた。また文章と共に寄せられたスケッチはル・コルビジェ本人のものでル・コルビジェの自叙伝「 東方への旅 」に収録されている。この自叙伝は邦訳出版されており、必見である。但し価格が20万円以上の豪華本なので、個人で購入するには財力と勇気がいるかもしれない!?。

「ル・コルビュジエの手帖‐東方への旅‐(松政貞治他共訳)」同朋舎出版 (1989.7)※同朋舎出版は潰れてしまったので、絶版となっているかもしれない。

Jurgen Joedicke
による序文

このトルコの建築についての書籍に序文を添える様にとの依頼は、私にイスタンブールの工科大学に客員教授とし招かれた2度の訪問期間を快適に過ごす事ができるよう温かく接してくれた、その国とその国の素晴らしい人々への感謝の機会を与えてくれる。私が経験したことすべては、特に2度目の訪問期間(その時点での経験は最初の訪問時に基づいてより体系的に進められた)に、歴史的記念碑を見る歴史家の見地からではなく、過去の模範の中に、自身が置かれた時代のある特定の問題を見いだそうとする建築家の目を通して判断された(積年の建築的傾倒の影響が全くないとは言えないけれども)。

私は、トルコのモスクを考えるにつけ、建設的な問題は時代は変わっても本質は同じであるという結論に到達した。変わったのはそれらの問題を解決する手段と全般的な社会背景である。私はイスタンブールからトルコに入る人々に飛行機や鉄道でなく、船で旅することを勧めている。船が、スルタン・アフメト・ジャミ、アヤ・ソフィア、そしてトピカピ宮殿(スルタンの宮殿)を過ぎて、ボスポラス海峡に入航するにつれ、来訪者は、ル・コルビュジェ (当時25歳)が1911年に体験し、自叙伝でそれを何度も繰り返すほど重要であると考えたものを追認するであろう。「 ビザンツの壁 、スルタン・アメトのモスク 、ハギヤ・ソフィア 、大トピカピ宮殿。なんと、愛しい町・人々が、その地図上のシルエットのままに!」

ウルヤ・ヴォグト−ギョクニルUlya Vogt - Goknil は、彼女の文章の中であるトルコの都市計画の原理を述べているが、その中に私は地形学に関する非常に重要な一節を認める。トルコの町は、国土の外縁の形状に沿って横たわっており、周囲を見下ろす地点(その国土の外縁が最先端部にまで達する場所)にまで広がっている。したがって、スルタンのモスクは都市の中心にあったり、大通りの交差路の「point de vue 」としてあるのではなく、周囲の丘陵の頂上に見られる。専門的描写をやめ、ただ自身をイスタンブールの不思議に浸すならば、おそらく、波状レース飾りのように垂れ下るドームのシルエットを持つモスクは、建築的手法によって強調された自然の形態であるように思われるだろう。この著述は、モスクが基本的に幾何学的な形態(切石(時に立方体)、球体、円筒)から成り立っていることを思い返せば、一層の驚きを促すように思われる。それらは、ル・コルビュジェが彼の美学の基本として提示したものと同じ幾何学的な形状である。実際彼はそれらを「美しい形態」そして「人類共通の言語」と呼んだ。

私はトルコの一般的な名所解説書の中に次の文を見つけた。「それらは基本的にすべてがよく似ているため、1つ1つのモスクを見て歩くほどの価値はない。」この文章は、不見識を暴露するものであり、一般的な旅行案内で見られるにすぎない。オスマントルコのモスクの歴史的展開は、依然として建築史の中では継子扱いされているものの一つである。それでもなお、それは区分化された貫通空間を示す建築の初めの最も魅力的な事例の一つである(内部空間の独自性と視覚に訴える外観を持つ建築)。(創造的、芸術的にするための)その絵画的表現の放棄は、すべての建築要素をもっぱら空間的に定義されたものへと還元させる。

それはまた、(西欧の大聖堂や教会の中の座席設備に相等する)空間的に定義された区域としてその床を識別させる。空間の類型学は、一つのドームで覆われた正方形の部屋と通路に隣接する2つのドームが架けられたモスクから、通路に隣接する同じくドームによって覆われたメインドームを囲む半球体のドームの様々なヴァリエーションへと展開する。これらの外部の視覚に訴える形態のなかで、その内部空間はずっと、第1と第2の部屋で、そしてまた部分的には第1と第2そして第3の部屋で、新たな解決法と分化を達成している。

部屋の構造のために採用されたその単純な手法にはいつも驚かされる。ウスキュダルのフェリー埠頭の近くに、1580年にシナンによって建てられたセムシ・アフメト・パシャ・ジャミ Semsi Ahmet Pasha Cami がある(モスクとマドラサから成り立つ小さな遺跡)。そのL型をしたマドラサは、狭い側面に平行してモスクと並んではなく、鋭角に建設された。そうして、(単純な手法により隣接させられた、しかし明確に区分された)モスクとマドラサの間の空間は作られた。そしてその効果は、位相的にその巧みな配置によって増幅される。そのエントランスはモスクとマドラサの間の最も狭い部分に奥まって配置されているが、人はそのモスクの狭く長い面を通り過ぎた後で、初めてモスクとマドラサの間の空間に気付く。そしてそれはボスポラス湾の水によって囲まれる丘の上にまで拡がっている。

オスマントルコのモスクの研究から生ずる多くの問題と疑問のなかでも、特に私はこれらの開放的なドーム形の建物の建設の問題に言及したい。我々は例えば、定説となるような、いかなる明確な資料文献をも探し出すことができない。改修においてでさえ、そのドームの形状は、殆どの場合、仮定に基づいている。ドームが実際に「スカルキャップ(縁無し帽子)状」であるという一般的な信念も、これまでのところ、正確な計測によっては証明されていない。さらに、ヴォールトの発達を知る上で、そのディテールが直ぐさま役に立つというものではない。

私自身の、ミフリマ・ジャミ Mihrimah Cami における調査により、それが、ローマ人によって使われたような、リブヴォールトばかりか、ラベンナのドーム建築の様な接合陶器管構造さえも、持っていないことが明らかとなった。しかしある構成は、ドームの中心に放射状に、そしてドームの湾曲に接して走る平タイルに基づいている(後者は、多かれ少なかれ、石膏漆喰の均一の厚さの層の中に埋め込まれている)。その急勾配のヴォールトは4本のメイン柱の上のペンデンティヴに転換される。これらの柱は頂上にまで達し、その合力点はずっと下の「 Gurtbogen(グルトボーゲン独語?迫持蛇腹?/訳注 」の始めにあるため、その合力を内側に圧縮し、それを柱を通して基礎に伝える十分な垂直応力がある。

この応力の伝達は、ハギヤ・ソフィアで成された工法の理解を実証する。すなわち、半ドームの配置で、その重量の大半は4本の主要な柱によって負担されるのである。ハギア・ソフィアでなされた調査は、ヴォールトの加重の大部分が、半ドームのなかに置かれた主軸を経由して4本のメイン柱とほんの小さな部分によって受け持たれていることを示した。もしこれらの半ドームが、(一般に信じられるように)本当に広がったドームの安定の為に必要であるなら、ドームの端部が四方全てで安全に保たれないすべての建物は説明がつかないであろう。

これらのモスクとそれらのドームは都市景観の核となり、多くの点で都市生活と関係があった。おそらく、それらを市の中心地域と比較することによって、それらの意味を説明することが最も簡単であろう。モスク(静かな祈りのために日中数回訪問される崇拝の場所)は学校、病院、慈善配給施設、薬局と旅館(隊商宿)と共同で建てられた。商店とカフェ、男性たちの集合場所、もまたこの広大な場所の一部であった。

町の中心地区は、賑やかな通りと静かな袋小路(その周りには5戸から10戸くらいの家屋が独立した区域を形成していた)のあるまた別の構造であった。Kemal Ahmet Aru(イスタンブールの工科大学の都市計画の教授))は「その袋小路はそこに住む住人の為のプライヴェートな集会場であった。正にここで我々はトルコの町の社会学的に生きている構造を見いだす」と言っている。 この見解は、貧しい人たちと金持ちが同居したその時以来の差別に反対したその様な意味の集約したものとして著名である。

富は常に正統な神性の厳密な理想 にたいして起こりうる脅威と見なされた以来、-「 誘惑の泉」- それは、富める者が寄贈者として彼の目的を自覚し、貧しい人たちに富を分け与えるかどうかで判断された。そうして、学校のような公共の建物、隊商宿と浴場、同様に美しく設計された噴水、の数は増加し続けた。モスクと一緒に、それらは古いトルコの町の景観(それらのスタイル、建築資材、場所)を独占し、通常は木材で作られた住居群と際立った対比を成した。これは現代のイスタンブールやブルグベルグ Burgberg に位置するアンカラのより古い場所で部分的に見ることができる。我々は、このような住居の一部を維持し、再建させる多くの努力が実を結ぶことを祈るばかりである。

Ulya Vogt - Goknil は詳細にこれらの家々の設備と場所を記述した。その為、より突っ込んだ見解が延々と述べられるであろう。しかし、私は(幾つかの柱に、そして柱から柱へ、窓の列に、分割された− 主にボスポラスの夏期住宅での慣例的な構成)その形式的な壁の構造について述べたい。

この巨大で独特な建築は、19世紀に新しいヨーロッパの考えの受け入れてから意味を無くした。けれども、不幸にも、その時の間にヨーロッパ から輸入された建築のスタイルは質が低かった。それ故に、我々はイスタンブールでネオゴシック様式のモスクあるいは Dolmabahce 宮殿のようなルネッサンス様式の巨大な奇形物のような時代錯誤なものを見いだしてしまう。

アタタークの下のトルコの州の再生は、トルコとヨーロッパの思想の間で、新たなひどい衝突へと導いた。アンカラ(アタタークが首都としたアナトリアの都市)で、 Bonatz 、 Egli 、Elsaesser そして Holzmeister は、伝統的な方法で建設し、そうして都市の特徴を明確にした。しかし、我々はアンカラでブルーノ・タウトによる最後の建物を見いだす。(モダニズムの主唱者、彼はイスタンブールで、彼の人生の最後の数年間に講義した)彼の後任者は Polzigとなるはずであったが、かれはイスタンブールに移る少し前に死亡した。

最初の近代的な建築の試みが見いだされることができるのはその30年の間である。世界大戦の間に、そしてその後、トルコの建築は保守主義的傾向があった。1950年頃に、もっと強い近代的な傾向が明白になった。すべての国のように、トルコの建築は近代世界において、その存在を証明するべきである。- 単に手法と必要性の業績だけではなく 、おそらくその建物すなわち新しいトルコ社会の創造を通じて。

シュツットガルト 、1965年7月。
下のイラストは序文に掲載されたもので、ル・コルビュジェの「 東方への旅 」に収録されているものからの抜粋であり、ル・コルビュジェ本人のスケッチである。

















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