フリードリヒ二世、司法の光輝 (FEDERICO, SOL IUSTITIAE.)

フリードリヒ(Federico)は、1211年から1220年まで彼の北域の領土に滞留した。彼は、彼の名目上の支配権を維持する為に、北のイタリア、アルル、フランコニア(Franconia)そしてシュワーベン (Swabia)を隈なく視察した。彼がその地位に至った時期、フリードリッヒの王国は崩壊寸前であった。その統合は、単に法王との信頼関係(フリードリッヒは、法王ホノリウス3世の治世にその維持に腐心した。)を得るばかりでなく、帝国の諸公の中立にも気を配る必要があった。(彼は特権と特恵の一部をその中立の為に犠牲にした。;双方によって成立し得る、そして枢機卿(ecclesiastical princes)たちに実質的に主権を有する領土としてあたえられた、アルプス以北の、かなりの特権を、彼の名目上の従属した封臣に託していた。)そうしてやっと、彼は、西域の帝国の皇帝としての地位を確保したのであった。

カプアの君主として復権した彼は、即座にそして効果的に、王権を復活させる為に、一連の法令 (1220年12月 )を公布した。これらの法令は、「カプア法典(Assizes of Capua)」として知られている。それらによって、彼は、ここ22年間の侵害を払拭し、かつて彼の母の祖父、ロゲリウス(Rogerios)の下にあった王国を再建しようとした。カプアから、彼は、ジグザグに南イタリアを横断し、1221年5月に、メッシナ(Messina)に至った。ここでも、彼は会議を召集した。そしてそこで彼がカプア法典をさらに拡大して適用しようとしたことは間違いない。カプアとメッシナ(Messina)の法令は、革新的であった。

フリードリヒ(Federico)は、国王の私有領地への諸公の侵入を排除するために、彼の従兄弟であるグリエルモ(Guglielmo)2世の死(1189年)以降、建てられ続けた全ての私有城の破壊を命じた。彼は、要塞化は諸公の領地においても国王の特権であると主張し、更に古い城はローマ教皇庁の許可なくしては改築すべきではないことをつけ加えた。国王から貸し与えられた封土及び礼拝場に関係する全ての以前の法令は、厳格に刷新された。諸公は、捺印証書(特与状)を高官(diwan)に提示しなければならず、1181年以降に得られたあらゆる特与は、無効にされた。ウィラvillaの権利が有効とされると同時に、貴族(男爵)の兵役は増加し、財政上の義務は、所有地collectaに対する一般緊急税(general emergency tax)によって増加し、さらに最上級位の諸公の民間の司法権の執行は、排除された。

更に、フリードリヒ(Federico)は、自らが土地収用の権利を保持することとした。諸公には、それらのウィラエvillaeの譲渡もしくは又貸しが禁止された ;彼らには使用の権利のみが許された。相続人は、その邸宅の相続に相続税を支払わねばならなくなった。更に、彼は、継承に必要な血縁関係の幅を狭めた。;例えば、結婚した姉妹は、彼女の兄弟からは相続できなかった。同じく彼は、集落と邸宅の所有の結婚時の持参に関する、あらゆる贈与を門を閉ざし、国王の承諾なしで未亡人あるいは娘と結婚をするは禁止された。直属の諸公のウィラvillaの保有を奨励し、下位の諸公にも忠誠心を高揚させることによって、彼は諸公を服従させ、反乱を困難なものとした。彼は内部抗争と仇討ちを禁じ、国王に供する武装活動のみを許した(例えば、curialsや警備)。

聖職者たちは、より厳しく管理された。;彼が同様に導入した新しい管理体制により、王の私有地で資材の持ち込み及び侵入が制限された。教会の状況とこの時期の高位聖職者は、多くの点で貴族のそれに類似していた。聖職者は、兵役を免除された代わりに、地代を払ってvillaeとcastraを所有した。それらは、国家の管理において重要であったが、フリードリヒは、 ( 他の階層と同様に ) それらの権利と権力は王の承認と制限に支配されるべきであると考えた。彼らは国王直属の管理下に置かれ、信徒と共にcollecta(年に1度以上配置換えがあった) に従属させられた。フリードリヒは、シチリア島の聖職者(clergy)を王の裁決機関の元に置き、神父(churchmen)の司法権を制限し、国王の土地収用権を守るために 、永代所有の資産を蓄積する彼らの権利を取り消した。

ローマで宗教的階層問題にまともに直面した、彼は、シチリア人の国が本来はローマ教皇の封土であるというローマ法王庁の論点を拒絶し王国の一時的問題に介入する法王権の企てに抵抗した。彼の帝国はローマ法皇の国家を取り囲んでいたため、フリードリヒは、ラテンの教会にとって最も危険な敵であり、自治と独立に対する脅威である、と見なされていた。彼が論争中の問題に強硬に挑み、教会の担当官に与しないであろうと思われた為、彼は幾度も破門され、退陣勧告がなされた。

しかし、本当にカプアとメッシナで発令された法令の矛先を感じたのは諸都市であった。フリードリヒは、多くの彼らの権利を無効にした。フリードリヒが1220年に強権を発動する以前には、全ての町にはそれぞれの権利(古代からの特権、特権、免除、自由、憲章、法)があった。その否定は、自治権の喪失を意味した。全ての町は、国王の司法と課税の体制に再統合されようとしていた。;これは、都市独自の税制と地方立法に対して警鐘を打った。君主政治の司法権は、状況に関係なく全ての都市住人に達しする総体的なものとなろうとしていた。全ての小売商人、ギルド組合員、官吏の階層は勝手に、国家と個人の緩衝体として、行動することができなかった。都市住人は、自治的組織、 aedificare municipium 、或いは、領事行政長官の選挙、及び、市長 (その全てがフリードリヒが嫌悪した権利 ) を求めていた。そして、彼は、自治体のそのような企てに逆らって迅速に処理した。これ以後、全ての都市の官吏は、国王の名の下に任命されることとなった。都市における自治体制への気運と自治都市の弾圧は、貴族或いは教会に対して君主が行ういかなる施策よりも、より完全で、おそらくより効果的であった。町と都市は、異議の温床であり、全ての種類の共済組織は、潜在的な厄介事であった ;双方共、勅許状によってのみ認可されることとなった :君主のみが、それらに法律的にその存在を可能とすることとなった。

北のイタリアの自治体と異なり、君主国の都市の自治体は、全く王の権威の影響力から独立していなかった。そして、ヨーロッパの別の君主たちとは異なり、フリードリヒは、諸公に対して同等の自治の特権を与える必要がなかっし、シシリーにおいて外国人の権利も認めなかった。勅令及び法令は、特別な状態に対するジェノバ人(Genoese)の主張を退けた。:独自の税制、取引特権、シラクサと後背地の支配権。

全ての都市、それが大聖堂のある都市であったとしても、都市、教区の行政上の中心は、王の行政長官 ( その税計算は高官の代理人によって順に綿密に調査された ) によって統治された。更に、フリードリヒは、新しい港と道路の建設を認可しないこととした。これらも、同様に、王の税務官の権限の下で審査される必要があり、これらの施設を造り維持する権利は、君主とcurials による特権と見なされた。道路と港は、 bona publica の一部であった為、公共施設、王の保護と許可に依ることとなった。

各都市は、国王の城によって支配され、全ての内地の戦略的位置には、それを防御するための国王の城があった。軍の要求は、最優先事項であった。諸都市はもはや、castra、防御基地 ( 同じように、商品を生産し、監視の下で事業を行ったものの )ではあるものの、自由企業体制の商業と産業の中心としては考えられなくなった。このように、より大きな自治的独立に向かう動向は、絶対的君主制の財政的・軍事的必要性と真っ向から衝突したが、王国は、政治的軍事体制が拡大され、何人もそれに異議を唱えることは許されなかいものとなった。

メッシナ会議で、フリードリヒはムスリムに嘆願された問題にも取り組んだ。これらの問題は、従来からの懸案事項であった。

ラテン征服(Latin conquest)の後、雇用機会が増え、シチリアへの移住者が確実に増えていったので、在住のムスリム住民の政治的な状況は悪化した。サラセン人(都市の職人や小売商人であったか、田舎の地主や農場経営者であったかに係わらず)は羨望の対象となった。ヨーロッパの様々な地域から来た新たな移住者たちが目にした、新しくより高い生活水準は、これらの移住者の間で欲望を絶えず刺激し、そしてサラセン人のみがそれらの邪魔になった。

1161年に、グリエルモ1世(Guglielmo)、Fortissimus、が包囲された時、島の様々な地域の新しい移住者は、多数のムスリムを暴行し、盗み、殺害した。報復的攻撃はあったが、ムスリムは身の危険を感じ、実際、多くの者たちがシシリーを離れそのまま移住していった。彼らの中に、主席 curial、優秀な侍従であった、Kaid Pietro さえもがいた。彼はチュニジアに亡命したが、直ぐさま、アルモハド朝に登用され、艦隊の司令長官となった。;彼は、その後、 Ahmed es-Sikeli ( シチリア人 ) と呼ばれた。

伯爵ルッジェーロ以来の、シシリーの支配者が持つアラビアの文化と伝統に対する高い評価をしても、下位の貴族と新規移住者のサラセン人の富への羨望から守ることはできなかった。そして、死或いは皇族の少数化、サラセン人の店の略奪、サラセン人の財産の略奪、によってその君主政治が弱体化した時期であった。グリエルモ2世の死 (1189年)と1176年のフリードリヒの未成年期時代に続く無政府状態の間の、人種的暴動が各地で勃発し、宮廷宦官は消滅し、ムスリムの農場経営者は不動産を失った。数万人が、この期間に、北アフリカに亡命したに違いなかった。一方で、その他の者たちは、防衛帯を形成した山岳内陸地域に移動した。

12世紀末期以降、ハインリヒ6世によって支援された北部の貴族(男爵)によって、彼らの能力の及ぶ限り扇動された、内乱は存続した。その期間、 1197年-1222年 の間、ムスリムのゲリラ兵は、教会の勢力と中央シシリー政府に対して長期戦を行った。サラセン人は、独自の貨幣を鋳造し、チュニジアのアミール ( 彼は武器、資金、戦闘員でさえも彼らに供給した ) と同盟した。1219 年までに、アグリジェント ( Girgenti ) は、彼らを殲滅せんとするキリスト教徒からのサラセン人の避難所そしてサラセン人レジスタンスの本拠地となった。

フリードリヒがシラクサの自治体制からジェノバの商人を排除し、彼らの特権を無効とし、そうして商売から彼らを排除した時、彼らは、損失に対する報復として、君主に対して連立勢力を形成するために、ムスリムの不満を煽った。フリードリッヒはこれに対抗し、1222と1224年の間の継続的軍事行動にサラセン人との共同戦線を張ることにより、シチリア内陸部の無人地帯を支配することを決意した。彼の敵は、わかりにくく、広く分散されていたけれども、最終的に彼は反乱の指導者、ibn-Abbadを破り、死を彼に宣告した。

20,000人の降伏したサラセンの反乱者をアプリア(Apulia)のルセラ、少数をカラブリアの Girofalco とNocera に移し、ルセラを軍事基地、彼の常備軍の本部として設立し、サラセン人に広大な土地を与えるという再植計画により、フリードリッヒは、シチリアの島でのムスリムの騒乱を極度に減少させ、同時にアプリアでのギリシア人(Hellenic)の影響力を弱めた。

フリードリヒとムスリムの諍いは、宗教的なもの或いは民族的差異によるものでもないし、彼らの物資あるいは土地へ欲求から生じたものではなく、規律を乱し、暴徒となった一群の人々の反乱によって、彼が確立しようとした国政社会に、顕現化した脅威から生じた。彼は、このように、サラセン人の反逆を暴動行動と見なした。ムスリムの反抗的中核の存続は、政治的理由から受容しがたかったのである。しかしながら、彼をムスリム排除派と考るべきではなかろう。:彼が話した6つの言語のうちの1つは、アラビア語であった ;彼のアプリアの常備軍は、ほぼ全てムスリムであった ;パレルモの彼の主席行政官の多くはムスリムであった。主席出納官 Uberto Fallamonca またそういった者の一人であった;彼の警備兵は、ムスリムであり、十字軍(1228-29年)としてパレスチナへ随伴した。

1224年に、彼は、ナポリ大学を創設した。自然哲学の研究も成されたが、主として、それは、法律上の、そして行政上の研究の中心であった。学生は、状態の職員になる前に公法を扱った立法のその部分において実用的前‐専門職業的教育を受けた様である。フリードリヒの出納官、司法官、港湾警備官、公証人の万全な情報網は、信頼に値した。:しばしば、ナポリで学問を修めた後、王室に官僚として入った町出身の者たち。Crescio d'Amalfi 、アブルッツィの主席収入役、 Enrico de Morra 、主席司法高官、 Enrico Abbate 、 Terra di LavoroとMolise(モリーゼ)の司法高官、 Bartolomea de Bessis 、タラントの城主、 Gian Idrutios 、直轄領の長官、 Taddeo da Suessa 、外交官と上級顧問、そしてPiero delta Vigna、国務弁護士と国務首席書記官の様な者たち。

困窮させられた第5次十字軍への援軍を提供するという彼の約束とひきかえに、ローマ法王ホノリウス3世が直々に彼に西域の帝国の皇帝の位を授けたとき、フリードリヒは、1220 年にフリードリッヒ二世となった。

1227年に十字軍に備え、フリードリヒは、各ウィラvillaに8オンスの金を、または、8ウィラエvillae毎に、一人の騎兵を供出し、戦いに備えるように命じた。彼は、それらの税を伯爵或いは城主にではなく、直接彼の国庫に支払う様に命じた。彼の前任者の慣例と一致する、「無償の民兵」 (milites tam feudati quam non feudati )が等しく課された「忠義なくして、成就なし。」しかし、この課税は、大した役割を持たなかった。戦士たちは、ほとんど支払う代わりに従軍した(騎兵、町人、そして補充された villans)。

君主は、ずっと「国家総動員」の擁護者であった。軍隊で従事できる者(鋤で或いは炉で働くことができるあろう全ての男子及び女子)は全て従事したであろうし、君主の全ての思想が生き残る為に不可欠である教訓的誓いに吹き込まれたのであろう。戦場において、軍隊はその役を果たすであろうが、それは十分ではなかったであろう。軍隊は、後方支援に依存していた。そして、それは補〓されるべき人員、装備、衣類、食料であった。それゆえ、彼は経済活動に制限(出入港の禁止或いは市場と通貨供給に対する更なる厳格な管理のような)を課した。

十字軍に着手した、フリードリヒは、エルサレムの都市がキリスト教徒勢力によって征服された暁には、彼に譲渡されるであろうことを、アル・カミル(al-Kamil)、すなわちエジプトのスルタンに知らせた。この協定に忠実に、フリードリヒはパレスチナの戦略的前哨地を占領し、それを一掃し、1129年3月17日に、エルサレムに勝利者として入城した。エルサレム、ベツレヘム、ナザレ (キリスト教徒の3つの最も神聖な聖堂:告知、キリストの降誕、磔の場所)を、1229年3月18日にムスリムの指導者アル・カミルから協定によって受け入れた後、フリードリッヒは聖墓教会の祭壇に行き、彼の頭に皇帝の王冠を載せた(神が、特別な恩寵もって、彼に与えた王冠、最初にマインツでそして後に1215年にアーヘンで)

王国に戻ると、彼は、ローマ法王グレゴリー9世が、中央イタリアのローマ法王の領土を取り囲む西域の皇帝の権力が長きにわたるローマ法王の懸念となろうと慮っていることを知った。フリードリヒが1229年6月10日にアプリアに帰還した時、彼は、敵対していたローマ法王の軍隊そして(十字軍戦士であるより、異端者であるとして彼を告発し続けた)ローマ法王によって迎えられたのであった。ここでまた、彼は、シシリーを統治する権利を取り戻すために、戦わなければならなかった。激怒した、フリードリヒは、ムスリム軍の支持を得、アプリアでのもう一つの戦いに勝利した。続く、1230年7月23日に、彼とローマ法王は、 San Germano の講和条約に署名した。

歴史が知るように、フリードリヒは、わずか36歳までには、超然とした人物となっていた。彼の十字軍は終わり、ローマ法王と和した今、彼は、再び関心の全てをシチリア島の領地に集中させることができたと思われる。王国において、彼は、全ての名士の組織の権威を廃し、権力全てを彼自身の手に置く、文書により、絶対君主としての決意を再び主張しようとした。

振り返って見ると、統合された領土としてのシチリアの王国の隆盛が、 南イタリア(アプリア、カラブリア、シシリー)の伝統的自治社会のゆっくりとした、しかし、無情な破壊を必要としたことは、明瞭である。前世紀と今世紀前期の間のその地域の社会史の大部分は、アイデンティティー、目的、意義の中核としての世帯と部族関係、邸宅と集落、教会と教区の変位から成った。

社会組織は、そのような具体的共同体において充実していた。中央権力は、公爵ロベルトと伯爵ルッジェーロ(Ruggero)の時代には弱かった ;人々の欲求は協力と相互援助によって満たされた。そういった国家の概念は、その時代の個人に理解できなかったであろう。帝政ローマは、そのような国家であった。しかし、イタリアにおいて、ローマは腐敗と外側からの攻撃の数世紀後に崩壊した。その後の数世紀間のその土地の歴史は、ローマの没落によって不安定なまま残された防衛と利益を得る為の自治的連体の創造の時代であった。家長制度家族、親族、村、壁で囲まれた町、同業組合、修道院、villaは、新たに権力を持った者たちが自治領土を建設するようになる時代まで、個々人の生活を制御する構成体となった。

様々な人々の社会的遺産を創造するには、長い時間がかかった。しかし、それらの倒壊は1世紀もかからないでもたらされた( 中央集権化された国家を強要する過程で ) 。全ての臣民に対して君主権力を強化するその最中に、政府の成員は、(彼らの歴史的権威を持つ、個人と国家の間の中間の状態にあった ) 伝統的な共同体を奪った。次第に、その効果はこれらの共同体を分解していった。

フリードリヒは、このような中間共同体を解体させるにおいて、どの前任よりも、容赦なかった。国家再建は、激しい反動を引き起こした。メッシーナは、市の行政長官を選出禁止に反抗した。カタニア、及び、シラクサは、先例に従った。そのような暴動に対するフリードリヒの対応は情け容赦なく、厳しかった。彼は、メッシナを占領し、暴動の指導者の首を刎ね、さらしものにした。チェントゥリペ(Centuripe)の都市は、跡形もなく破壊し尽くされ、その居住者は、アウグスタ(Augusta)そして皇帝を記念して名付けられた新しい都市に 1233 年に移送された 。

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