ハインリッヒとコンスタンツァ
Heinrich and Constanza



コンスタンツァは、彼女の甥(グリエルモ2世)より1歳ほど若かった。彼女は、1185年の秋に、ヨーロッパで最も裕福な女相続人となった。そして、彼は、婚約者(ホーエンシュタウフェン家のハインリッヒ、西欧の皇帝フリードリヒ・バルバロッサと北部ブルゴーニュのベアトリスの息子)に会うための半島の北へ旅に対して、彼女の地位にふさわしい持参金でいっぱいの500頭の荷馬とラバからなる供人たち随員を与えていた。1183年にシシリーとの結婚同盟(具体的に言えば、彼の息子ハインリッヒとロゲリオスの死後の娘コンスタンツァの間の)を提案したのは、フリードリヒであった。グリエルモ2世と彼の顧問は、受け入れた。その時には、グリエルモは若く、彼が子供を残さずに、死亡すると思う理由もなかった。彼の妻(ノーマン・イングランドのジョアンナ)は、予想に反してグリエルモの死後に、出産した(レイモンド4世、トゥールーズの伯爵でありアルビ派改革運動者の敵と再婚していた)。対照的に、コンスタンツァは、子供を産まないままでありそうな王女であった。

この結婚は、支持され、大司教グアルティエーリによって十分に手はずが整えられた;コンスランツァは、この時まで修道院にいた。1186年1月27日のミラノで、ハインリッヒとコンスタンツァが、夫と妻であることが宣言された;彼は20歳で、彼女は31歳であった。この式典の後に、別の式典が、急遽、続けられた。そこで、各々は、法王ウルバノス3世を失望させたのであるが、(ロンバルディの鉄の王冠で)アクイレイアの総大司教によって戴冠した。

東の帝国を収奪するためのもう一つの軍事行動(第3次十字軍)の間に、フリードリヒ・バルバロッサは、1190年6月10日に死んだ;彼の息子は、数ヵ月後に、その知らせを聞いた。南イタリアに侵攻するために軍隊を招集した、ハインリッヒは、ローマの入口で待機した、そこでは、新しく創設された、しかし非常に老齢の司教(ほとんど死ぬほどおびえている)が、慌てて西方の帝国のハインリヒ6世として彼を任命することに同意した。1191年4月15日に、聖ペテロ大聖堂で、法王ケレスティヌス3世は、輝ける一組の男女に「Imperator et Im-peratricis Romanorum」を授けた。

1193年の初めに、ハインリッヒは意外な授かり物を受けた(リチャード(Au coeur de lion)が、オーストリアの公爵レオポルドによってに引き渡された時);リチャードは、公爵によって1192年にとらえられ、それ以来ドナウ川にある彼のDurenstein城で拘留されていた。西方の皇帝は、その王子の引渡しに対して、150,000のマルクの身代金を、イングランドのノルマンディー政府に要求した。この身代金の最初の分割払い金は、直ちに、社会的に混乱したシシリーの侵略おいてハインリッヒを援助するためのピサの艦隊に出資する為に用いられた。その王国の政治的で軍事分裂のため、そして、特に、ムスリム不満のために、侵略者はオットー大帝以来、全ての西の皇帝が試み、そして失敗したことを成し遂げることができた;つまり、王国全土の支配を成し遂げること:南イタリア、アプリア、カラブリア、シシリー。

シシリーに入るやいなや、ハインリッヒは、タンクレディが支持のために獲得していた、都市と男爵に対するすべての特権を取り消した。彼は、キプロスとアルメニアに統治権を与え、中部イタリア(教皇の財産)を征服しようとした。彼はまた、タンクレディの妻Sibillaと折り合った。彼女の若い息子(グリエルモ3世)は、レッチェの州とタラントの公国を与えられことになったが、彼女と彼女の他の子供たちは、スワビアに追放されなければならなかった。彼女が追放されるとすぐに、グリエルモはスワビアの城に移され、ハインリッヒの命で、目をつぶされ、去勢され、死に至らしめられた。行為の極悪さは、想像を絶する。聖別された皇子は、現世の聖像であり、深い歴史的宗教的な意味を与えられた。彼がどんなに若く未熟であったとしても、彼は、人民と教会にとっては聖な社会秩序の神象徴のままであった。ハインリッヒがグリエルモ3世に退位を強制し、彼を死に至らしめたとき、彼は、シチリアの歴史の方向を変えた出来事の連鎖を発動した(おそらく非合法な帝国の侵入そのもの以上に)。

クリスマス(1194年)に、皇帝は、パレルモの大聖堂の礼拝堂でシシリーの王冠を受けた;その翌日、彼の妻、コンスタンツァ(当時40歳)は、Jesiの町で息子(フェデリーコ)を生んだ。ハインリッヒがシシリーを包囲した直後、タンクレディの即位式に出席した者たちは、逮捕され、生きたまま焼かれた。後に、クーデターの可能性を知った、ハインリッヒは恐怖政治を始めた。王国は揺れた。しかし、彼の残忍性のさらなる標的にとって幸いなことに、皇帝は32歳で、1197年にメッシーナで、誰によっても悲しまれない、突然死を遂げた(おそらくマラリアで)。死ぬ前に、彼は外来の帝国の利権を支えるために、シチリアの国庫を略奪した。カントーロヴィチ(1967)は、デ・シェリエを引用して、1195年に、「金、絹、宝石と他の貴重品が積まれた150匹のラバのキャラバンは、Trifels[アルプス山脈の北]の帝国の城に到着した」点に注目している。一般的に元々ロゲリオスのものであったと謂われる、今日ウィーンのKunsthistorisches博物館で見られる有名な外套は、後者の一つであった。

コンスタンツァは、1198年に、パレルモのSt Maria Incoronata に大聖堂の礼拝堂でで戴冠した(彼女の3歳の息子フェデリーコと共に)、そして両者ともが、慣例に従って、「Christus vincit, Christus regnat, Christus imperat」という言葉で迎えられた。彼の父方の側では、彼は、4分の1がスワビア人で、4分の1がブルゴーニュ人(彼の父の祖母は、上ブルゴーニュのベアトリあった)であった、そして、彼の母方の側では、彼は、8分の1がノルマン人で、8分の1がリグリア人で、4分の1がワロン人であった。

しかしながら、王国の厳しい分列状態をしっかり自覚し、権力に対するあからさまな闘争を予期していたコンスタンツァは、国王の占有地をイノケンティウス3世法王に譲渡し、そのうえで彼女の若い息子を彼の被後見人とした。教皇権へのこれらの譲与は、政権の手綱をすでに握っていた国家の官僚によるいかなる承認も得ることはなかった、そして、その時になって、これらの官公吏は、教会の階層に対して警戒しなければならないことに気づいた。

彼女が死ぬ(齢44歳)とすぐに、対立が、王国の支配権を求めて勃発した:政権の印章とフェデリーコの名で執行する地位。その後の、混沌と争いが、その国の特性を示した。政治の中核が弱かった為、自由奔放な派閥や非合法に君主の権利を侵した者たちに対する効果的な制約がいなかった(君主政体が主にその収益を頼った、王室御料地が徐々に削られてた結果)。

先導する派閥(亡くなったハインリッヒからの補助金によって裕福になった帝国の男爵から成る)は、国王の財産を守るためにローマ法王によって派遣された軍隊に逆らって、パレルモの所有権を手中に収め、幼い君主を誘拐した。これらの帝国の軍人長は、ピサの傭兵とムスリムの暴徒の支援を得た。彼らに敵対したのは、地方のシチリアの男爵から成る派閥(外国の侵略者たちにを目の前にして急遽連合した)であった。そして、統一された。これらの有力者たちは、教皇庁(西方の帝国による包囲をずっと恐れていた)の支援を得た。

帝国の男爵たちは、そのゲームのまさに初めから権力闘争に破れ、君主が救い出された。1200年7月21日のモンレアーレの闘争は、きわめて重要だった。彼らの敗北は、地方の男爵における最後の外部の抑止力を排除し、扉を、国王の財産と権利と任務の広範囲にわたる疎隔に対して開いた。これらの侵食は、俗人の支配者に限られていなかった;司教と修道院長たちは、取り急ぎ国王の抑止力の欠如を利用した。

そのうえ、様々な外国人たち、特にジェノバ人、ピサ人、ベニス人(彼らは王国の商業活動で特権的な職を徐々に得ていた)たちは、幼さない君主に対して更なる支援を求めることによってだけでなく、あからさまな権利侵害強奪によっても彼
らの優位性を強要した。都市の中では、さらに、コミュニティの自治権を求める都市の名士によって先導された初期の運動は、幅広い地方の管轄権の要求を成功させた。

彼の14回目の誕生日、1208年12月26日に、フェデリーは成年に達すると、ローマ法王の選んだ花嫁、ペドロ2世レイ・デ・アラゴンの妹、Constanca、と結婚させられた。彼女は、その時24歳で、ハンガリーの国王(彼は、Colomanとロゲリオスの妹Busillaの孫であった)の未亡人であった。

1211年に、公権力の相変わらずの混乱の中、西方の皇帝は、南イタリアに侵攻し占領し、さらにメッシーナ海峡を横断する準備をした。最後の征服の寸前に、教皇の相談役のガイダンスの下で、オットー4世は、ニュルンベルクの高等評議会によって、彼が追放され、若いフェデリーコが彼の代わりの皇帝に選ばれたことを知った。

フランクフルトへ旅立った、フェデリーコは、1214年12月5日にドイツ領地の元首として、正式に選ばれた。4日後に、マインツで、彼はローマ人の皇帝になり、西方の帝国のフェデリーコ2世となった。1215年7月25日に、彼は、再び、アーヘンで戴冠した。この2回目の即位式は、ローマ人の皇帝が油を塗られ戴冠するのはここではあるという慣例によって、(オットー4世から引き取られたあるべきローブと共に)必要になった;マインツでの彼の前の即位式は、司法上は許容できたが、それは西方のローマ皇帝の系譜では、フェデリーコを明白に確立することはなかった。その後、彼は、彼の遺産を確保するために、広くアルプス山脈のこれらの領地北を旅行し、その後、事態の予想外の変化を為、1217年にアルル(下ブルゴーニュ)でも王座を受け入れた。

法王イノケンティウス3世は、1216年7月16日にペルージャで死亡した。彼の後継者はCencio Savelliであった。そして、その者は1216年7月24日に玉位について、ホノリウス3世を名乗った。フェデリーコは、彼が教会の利益に反して決して行動しないと、彼の年老いた家庭教師に信じさせた。したがって、彼と彼の妻は、ローマの聖ペテロ大聖堂に、1220年11月22日に、厳粛な帝国の即位式をもって法王によって皇帝と皇后として再確認される為に、招待された。

彼の妻(コンスタンツァ)は、1221年死亡した。彼らには、2人の息子がいた:ハインリヒ7世は、アルプス山脈の領地北部の統治者になったが、彼の父に反抗した後に自殺した;そして、エンツォ(Sardinaの君主)は、ピサに対する戦争で、捕らえられ、二度と姿を現すことはなかった。1227年に、フェデリーコはヨランダ(エルサレムの軍人長ブリエンヌのジーンの15才の娘)と結婚した;彼らの息子(コンラード/Conrado)は、1228年に生まれたが、1228年4月間もなく、ヨランダは死亡した。彼は、それから1235年に、イザベラ(ノーマン・イングランドのアンリ3世の姉妹)と結婚した;彼らには息子エンリーコがいたが、若くして死亡した。現役時代、彼には愛人と他の2人の息子がいた:マンフレーディとタンクレディである。

はげた、近眼で、そして、血走った目をした、フェデリーコは、容姿的には魅力的でなかった、しかし、彼が彼の多様でダイナミックな知的な素養でそれを補った。そして、それは6つの言語を話す能力が含まれた;彼にエキゾチックな動物園を保有させ、タカの訓練法に関する論文を書かせた自然の歴史についての好奇心;そして、数学、哲学、器楽、建築に関する知識。彼のすばらしい宮廷は、様々な学者と芸術的先覚者を引き寄せた。

フェデリーは、1250年12月13日に死亡した。マンフレーディ(フェデリーコとビアンカ・ランチア(アルルの統治者とシシリーの摂政)の非嫡出子は、彼の義理の兄弟コンラード4世(アルプス山脈の領地北部の相続人)に、彼らの父の行世紀に関する見解を手紙に書いた:「司法の太陽が決めた平和の創造主は他界した」。

09/02/28

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