04コルドバのカリフ国

イスラム世界の最西端では、コルドバのウマイヤ朝が繁栄し、10 世紀半ばには東方のファーティマ朝の問題を利用してモロッコ(図046)に勢力を拡大した(そこでは、無法者のベルベル人が、イドリース朝のアラブ王朝がフェズを拠点として保っていたような統一体を蝕ばんでいた。)彼らの最盛期は、カリフの称号を取り戻したアブド・アッ・ラフマ-ン 3 世 (912年-61年) の下で達成された。当時、コルドバは世界で最も文明化された都市のひとつであった。

  弱体化したヒシャム 2 世 (976年–1009年) の政権下での衰退は、有能な宰相アルマンスールによって延期されたが、その後急速に進んだ。北アフリカからのベルベル人の侵入は政権を混乱させ、一連の反乱は 1031 年にコルドバ カリフ制の終焉をもたらした。スペインは、イベリアにおけるイスラムの流れを逆転させようとするキリスト教徒に有利な、ライバル関係にある小国に分裂した。

 アッバース朝とファーティマ朝に匹敵する西方のウマイヤ朝は、建築のパトロンとして同時代で突出していた - 実際、彼らの首都コルドバの壮大なモスクは、ムスリムの主要な栄光の一つである。(図047)スペイン南部でさえ、厳しい冬から身を守るには、最初にアーチの層を支える柱の森と木造の天井が必要であった。そのヴォールトはインターロッキングリブを主題とした変奏である。:一つの正方形の中央の部位を形成する一つ長方形の上の格子で組にされたモノ(しかし、ビリャビシオサ礼拝堂では、対角線上にある別の方形を形成するために隣接する側面の中心を結ぶリブでカットされている。):決定的なマクスラの2つのサイドのベイにある8つの頂点のある一つの星と一つの八角形の中央の部位を形成する一つの八角形の反対側の間で組にされたモノ。:ミフラブの前の中央のベイの中央の部位を形成する、一つの八角形の隣接する側面の夫々の組の間で斜角で重なり合っているモノ。

 高窓 (clerestory) の為に尖頭馬蹄形のアーチで作られている窓が最大限に使用されている。(マクスラ (maqsura) の 2 つの補助ドームの馬蹄形のスクインチの後ろにあるスカラップのセミドームは、再度、尖頭アーチの起源を示している、垂直面ではなく水平面ではあるが。)マクスラ のヴォールトは、リブ状の部位とはめ込まれた花柄のドーム状文字(floral dome lettes)上の様々な光の演出に依っている。(その中央のミフラブのベイのヴォールトは豪華なモザイクで覆われている)

 ミフラブそれ自身は豪華に装飾された、大理石と漆喰の八角形の小部屋である。それは複雑に切り込まれた馬蹄形のアーチを抜け、そしてそのコーランの文章で飾られた長方形のフレームの中の誇張された湾曲は、まるで恵みへの進行の最終段階を示しているかのように、中庭に至る主門の形を表している。そしてそれは784年に初めて現れた。そして次の2世紀に渡ってその囲いの大部分が覆われた。(図048-049)カリフ、アルハカム2世(961年-76 年) は、最も精巧な作品を担当した。王家の崇拝のための囲い (マクスラ) のベイ(交差した先頭アーチと、様式化された花のモチーフとコーランの書道の細かい浮き出し模様のあるクロスリブのカネル状cannellateのドーム)(図050-051)そのアーチはウクハイデルでのその純粋な構造的形状は失われ始めていた。:コルドバでは、それはムーア様式と呼ばれるようになった湾曲した尖頭と交差するスタイルの純粋な装飾となっていた。

宮殿と離宮

 コルドバにはカリフの宮殿はほとんど残っていない、近くのメディナト アル ザヒラの田園地帯にある発掘中のアブドゥル ラーマン 3 世の離宮(豪華な分遺が散らばっている)は、その場所の輪郭から引き出されたテラスが明らかになった。:公的な中庭を囲む住居区画(公的や私的な)庭園の概容。少なくともそのうちの1つは、軸線の水路が交差する矩形であった。(図052)その 4つの 正方形の庭 (chahar bagh) は、コーランのエデンに関係する、古代ペルシャの秩序の理想に基づく楽園の小宇宙である。中央の生命の水の源から基本的な方向に流れる4つの川によって四分の一に分割された囲まれた広場。そしてコーランの伝統では、天国の庭園は水の上に建てられたパビリオンが配置されていた。このように、アブドゥルラフマーン 3 世の宮殿は、地上の楽園のイメージだったのかもしれない。前例のコンスタンティノープルの皇居や、(疑いなく)サマッラーのジュサク アルハカーニ宮殿の様に。

 コルドバの栄華の頂点で実現可能な安息の場は、西部に残る最も初期の宮殿の典型とは異なっている。ウマイヤ朝とアッバース朝の中心部と同様に、これらはゆとりがある、しかし、それらには、固く防御された長方形の複合施設の内部に中心部を構成する広場を持つ規則性がある(軸性も)。(図053)一連の北アフリカの例は11世紀半ばのサラゴサのアルファフェリアを先進する。しかしながら、ここのホールとモスクの装飾においては、構造形態の装飾的な操作は、コルドバ後期の極致を超えており、独特の非対称性に迷い込んでいる。(図054)

 

図046 コルドバのカリフ国

金曜日のモスクの施設の背景にあるフェスの風景

  

図047 コルドバ。987年に拡張された時期のウマイヤモスク平面図

190 x 140 メートル (623 x 459 フィート) の巨大な複合施設(キブラ壁から極端に離れて北東/南西に配置されている)の3分の1は中庭で、残りは広大な多柱様式のホール(17のベイがあり、16世紀のキリスト教大聖堂によって、酷く分断されている)である。最も西にある第 2 のベイ (ミフラーブの前に身廊を供するより広い中央のベイ) は、アブドゥルラーマン 1 世 (756–88) の元の原型にさかのぼるが、アブド アッラーマン 2 世 (821 -52)によって、キブラの方向に12から20の列間intercolumniationsに拡張された。。アブドゥルラーマン 3 世 (912-61) によって、中庭には回廊が付けられ、ミナレットが建設された。アル ハカム 2 世 (961-76) は、中央のキブラ ベイを跨ぐドーム型の部屋を建設した (おそらく、元々はカリフの個人的な使用のためのマクスラとして意図されていたもので、現在はビリャビシオサ礼拝堂である)。しかし、これはもう一つのキブラの方向の12の柱間intercolumniationsの追加によって包み込まれ、新しいミフラーブ ニッチの前のスクリーンのあるマクスラの 3 つのドーム型チャンバーに取って代えられた。最終的に、ヒシャム 2 世 (976-1009) (最後のコルドバのウマイヤ朝カリフ)の宰相であるアル マンスールは、礼拝堂を東に向かって 8 つのベイだけ横方向に拡張した。

  

図048 コルドバ、ウマイヤ朝のモスク、784年の柱廊。

アーチの森の支柱としてローマ時代の柱を再利用する標準的な初期のムスリムの熟練技は、吊り下げられたピアから跳ね上がる大胆にアクセントを付けられた 2 層目の迫石アーチの壮観な装置によって、発端部から変容した。おそらくローマの水道橋によって示唆された、これは、より確実に利用可能な柱が許容する高さと幅の間の申し分ない関係を達成した.

  

図049 コルドバ、ウマイヤ朝のモスク、987年の柱廊。

  

図050コルドバ、ウマイヤ朝モスク マクスラ側面ベイのヴォールト

 

図051コルドバ、ウマイヤ朝モスク ミフラブベイのヴォールト

アルハカム2世の作品は彼の先任者よりずっと豪華である。彼のマクスラのスクリーンもまた重なり合ってたアーチで構成されている、しかし3 層で相互に貫入する先尖の馬蹄形で構成されている。

  

図052 メディナ・アル・ザヒラ、アブド・アッ・ラフマーン3世の宮殿、936年設立、敷地図。

当時の宮廷年代記者は、庭園、多くの円柱のあるパビリオン、青銅と大理石の噴水の広大な景観を記録している。発掘調査により、庭園を見下ろす最上階のテラスに宮殿の建物が不規則に集まっていることが明らかになった。サマラと同様に、宮殿の主要な要素は廊下によって互いに分離されていた。この複合施設は、1010 年のベルベル人の反乱で破壊された。

   

図053サラゴサ、アルファフェリア宮殿、1050年、平面図

統治者アブ・ジャファル・アフマド・イブン・スレイム (1049-83) のために建てられたアルハフェリアは、セビリアのアルモハド・アルカサルと同様に、ウマイヤド・カスル (42Pの 16 を参照) を介して一般的なローマ陣営から派生したタイプに準じている。

近くの周辺のキリスト教徒たちから固く防御された不整形な長方形の敷地内にある主要な居住区は、北と南からアーケードのある中庭を見下ろしていた。東の入り口から比較的離れた、南にある平行なポーチとホールは、おそらく謁見のためのものであった。北側の柱廊ポーチには、八角形のモスクを含むさまざまな部屋があった。

  

図054サラゴサ、アルファフェリア宮殿のモスク、内部

モスクの内部は、スタッコで刻まれた複雑な花模様でほとんどの表面が覆われた、交差するフレーム内の尖頭裂片アーチの騒乱状態である。その軌道が扉の枠から他の場所へ超えていくアーチへのフィリグリー的(細密彫金細工?)なバランスの重ね合わせは、18 世紀まで比類すべきものがないままであった、不思議な非対称性を生み出している。

 

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