Ostrogoth/東ゴート族(王国) 493‐536


ゲルマン族の一派である東ゴート族のテオドリクにより、イタリアに建国された王朝。


スカンジナビアを発祥地とされるゴート人は、3世紀に東西二つの集団に分かれた。バルカン半島や小アジアなどの自領域内での東ゴート族の略奪・侵入行動に悩んだ東ローマ皇帝ゼノンは、テオドリック大王の率いるこの部族に、オドアケル支配下のイタリアへの遠征を勧め、テオドリック大王の軍隊は489年から5年の歳月をかけて、493年にイタリアの平定に成功し、首都ラベンナを中心とする東ゴート王国が成立した。テオドリク大王の死後(526年)、旧ローマ領土奪回の図る東ローマ帝国(ビザンティン)の皇帝ユスティニアヌス1世の片腕となった名将ベリサリオスの遠征により、540年に解体した。東ゴート族は、その後十数年間にわたって相次いで抵抗戦を組織しが、552年抵抗は終息し553年東ローマ軍完全占領。
統治体制:
東ゴート王国は、ゴート人とローマ人をそれぞれ別個の支配体系のもとに置く分離統治の原則(フランク、西ゴートでもみられる)を徹底して実施した。ゴート人の統治は、民政・軍事両方の権限をもつゴート人の伯comes が中心となって行い、ローマ人は従来のラベンナ宮廷の役人が掌握した。この2系統の支配体系は宮廷と王の人格のもとで1本に統合された。従って、カッシオドルスで知られるように、多くのローマ人が有能な役人として宮廷で勤務した。ローマ人には武器の携帯が禁止されゴート人のみが軍事力を独占した。またゴート人が定住した都市ではローマ人街区と新来のゴート人街区が区別される傾向があった。これはゴート人とローマ人の宗教の違いとも関連しており前者はアリウス派、後者はカトリックで、少数派であったゴート人がアリウス派教会を核として定住したという事情も関係している。
テオドリック大王の対外政策:
部族国家間の融和を図るための婚姻政策が知られる。テオドリック自身も、フランク王クロービスの妹と結婚し、彼の2人の娘のうちの1人はブルグント王ジギスムント、残る1人は西ゴート王アラリック2世のもとに嫁がせ、妹はバンダル王トラサムントと結婚させた。こうしてつくりあげた姻戚関係を基礎に、ゲルマン諸国家のいわば後見人として君臨した。

*参照→民族大移動部族別侵攻とその後の展開

2006/05/15

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