Carolingiens/カロリング朝 (752‐987)
Die Karolinger(ドイツ語)・Les Carolingiens(フランス語)。フランク王国の後期王朝(752‐987)。カール大帝の名をとってカロリング朝とよばれる。
 アウストラシア宮宰ピピン1世とメッツ司教アルヌルフとの家系から生じ、しだいに全宮宰職を獲得した。特に
カール・マルテルのトゥール・ポアティエの戦での勝利(732)は、この家系の令名と実力とを高め、その子ピピン3世は王をしのぐ実権を握っていた。当時の西欧は、メロビング朝の衰退に伴い、ビザンティン帝国、イスラム教徒、スラブ族等にかこまれた崩壊寸前の小島のごとき状態にあり、これを統一させて救うために教皇ザカリアスは、真に実力あるものが王権を握るべきであるとの意向を示し、聖ボニファティウスはフランク人をして、ピピン3世をフランク王に選ばせ、彼に塗油した。この〈クーデタ〉によって、王位継承原理に従来フランク族が従ってきた男子全員の血統権に加えて、選挙制と塗油による聖別が加わった。
 
カール大帝(在位768‐814)は、フランク王権の支配を、ほぼ今日の EC 圏を包括する範囲に及ぼし、主として聖職者からなる宮廷の〈参謀部〉の助言を得て、神政政治的な国家体制を作ろうとした。800年にローマ皇帝の冠を得たことにより、彼はさらにローマ的な理念を導入しようとし、その果実はその子ルートウィヒ1世(在位814‐840)によっては受けつがれ帝権と教会とを結合する理想主義的な統一国家像が打ち出された。
 しかしこのような理想像は一般には理解されず、さまざまな現実との摩擦を生じた。例えばカール大帝の分国令(806)は、男子すべての相続を認め、帝権への言及は故意に避けたが、ルートウィヒ1世の帝国遺贈令 (817)は、帝権に重点をおき、同時に長男ロタール1世を皇帝および共同統治者としたため各方面の不満がついには反乱にまで発展した。加えて823年に末子カール(のちの2世)が後妻との間に生まれ、817年には予想されなかった遺贈分を準備せねばならなくなったルートウィヒ1世は、しだいに他の3子(ロタール1世、アキタニア王ピピン、ルートウィヒ2世)との間に争いを生じ父子骨肉の戦争から一時廃位にまで追いこまれた(830‐833)。ルートウィヒ1世の理想主義はさらに教会の乗ずるところとなり、王権を教会に奉仕するものと位置づけた。
 843年のベルダン条約は、ロタール1世(ロタリンギア)、ルートウィヒ2世(東フランク)、カール2世(西フランク)の取分の線引きを明瞭にし、中世末まで唯一拘束力のある国際条約となった。しかしロタリンギアからは早期にイタリアとプロバンス両王国が分立し、残った狭義のロタリンギアはメルセン条約(870)によってルートウィヒ2世とカール2世の間に分断された。923年にはゲルマニア側に移る。

バイキング 
9世紀後半からノルマン人(バイキング)の侵寇が激化する。彼らは河川をさかのぼり中州に陣をしき、舟を馬に乗りかえ、特に教会や修道院の財宝をねらった。そのため修道士は聖遺物をたずさえて逃げまどい、王国そのもののよって立つ秩序は決定的に失われ、ついにシャルル(3世単純王は、サン・クレール・シュル・エプト条約(911)により、ノルマン人にルーアン付近への定住を認めた。
*参考→ノルマン王朝の系図

終末
 フランク王国そのものは、カール3世(皇帝在位881‐887)のとき一時統合されるが、彼はノルマン人対策に失敗した。その間に西フランクではノルマン人のパリ包囲(885‐886)で功績をあげたロベール家(後のカペー家)のウード Eudes(在位887‐897)や、ブルゴーニュのラウールRaoul(在位923‐936)が王に選ばれ、この王朝による王位の独占の原則は早くもやぶれ、ユーグ・カペーの登極によってカロリング朝は終わった(987)。東フランクでは911年のザクセン朝の登場によってこの家系の王・皇帝は絶える。
*参考→ カロリング王朝の系図

教会
ピピン3世やカール大帝がボニファティウスやアルクインなどの参謀部とともに作り上げた国家像は、教会教区を骨格とし修道院を肉とし、これに統一典礼という血液を通したものであった。第一にピピン3世は、司教管区制を再整備し、さらにランス Reims とサンス Sens とに二大司教をおいて、大司教管区に司教群を従属させる体制をとった。しかもこのピラミッド構造の頂点には教皇ではなく王がおかれたのである。修道院の建設は、すでに8世紀から盛んに行われたが、カロリング朝に入ってからは、国家的事業として一日行程に一つ修道院を備えてこれに宿泊機能をもたせ、大修道院には貨幣鋳造権や市場開設権を賦与して経済的中心とし、さらにその所有する荘園群の経営は農民の末端にまでキリスト教化を及ぼした。〈ベネディクトゥス会則〉が最も一般的な適用会則となったのも,王たちの奨励によってである。これらの教会・修道院群で従来のガリア典礼を廃し、ローマ典礼を統一的に執行させるために、教皇ハドリアヌスは典礼書《ハドリアナHadriana》を作った。

産業
大修道院の土地台帳や、カール大帝の〈御料地令〉(770‐800)が示すような大規模荘園に当時の経済が主として依存していたことは、西欧の商品流通の途絶によるものであり、この現象は5〜6世紀にはじまっている。しかもその生産性はきわめて低く、播種量1に対して収穫量4にとどまっていた。しかし地方的近距離貿易はもとより遠距離貿易も残存しカントベック港経由のイギリス貿易やパリ・ベネチア貿易も立証されている。  

参考文献:平凡社世界大百科事典
参考サイト:http://en.wikipedia.org/wiki/Carolingian
       http://en.wikipedia.org/wiki/Franks
       http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Frankish_Kings

2006/08/14追記
                        
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