カロリング朝創設を確実にした事件
トゥール・ポアティエの戦 (Tours・Poitiers)
732年(10月25日?)にフランク王国の宮宰、カール・マルテルに率いられた混成軍団はトゥール(Tours)とポアティエ(Poitiers)の間において、勇ましくもイスラーム軍を壊滅させ大勝利した(歴史の教科書に必ず書かれているトゥール・ポアティエの戦い)。その後、これにより信望を得たカール・マルテルのカロリング家はフランク王国での地位を確固確実なものとし、ピピンを経てあのカール大帝そしてカロリング朝の創設へと向かっていったのであった。
カロリング王朝の系図

この時に、イスラーム軍を率いたのはアブド・アッラフマーンであった。でも気をつけなければならないのは、このアブド・アッラフマーンは、コルドバのウマイヤ朝を起こしたアブドアッラフマーン一世とは別人物であり、敗北したアブド・アッラフマーンはアブド・アッラフマーン・アッガーフィキー(Abd al‐Rahman al-Ghafiqi)(?‐732年)という、いわば一地方の総督にすぎなかったという事実である。

カール・マルテルはアラブ軍の本陣を脅かしたわけではなく、アラブにとっては単に宗教的義務であるジハードとしての遠征の一つを、その小分隊を、追い返したという辺境地の一出来事にすぎなかったのである。

歴史上の意義

我々は、この事件を〈西洋文明の優位〉を強調する世界史上の最大事件の一つとして中学校で習ったが、この様な誇張した見方は今日では姿をひそめている。(依然として優位を強調する意見もみられる様だ。)

とはいえ、この戦いは
西欧においてイスラム教徒が被った最初の大敗北であること、フランク王国によるガリア支配の死活にかかわる大問題であったことには間違いない。

「歴史に if はない。」といわれるが、仮に、ここでカール・マルテルがアブド・アッラフマーン・アッガーフィキーに敗れていたとしたら、戦死していたとしたら、後のカール・マルテルの孫であるカール大帝(すなわちカロリング朝)の存在は想像できないであろし、アラブ側としてもこの時アブド・アッラフマーン・アッガーフィキーが勝利し、生きていたら、後のアブド・アッラフマーン一世によるコルドバのウマイヤ朝はなかったかもしれない。

この事件が、この時代の西欧の強大さを示すものではないことはあきらかであるが、双方にとってこれが歴史上のクリティカルポイントであったことは間違いない。(ダマスクスのアラブ本陣が総力を挙げて衝突したなら西欧は粉砕されていたであろうが、当時の西欧は、コンスタンチノーブルを中心とする豊かな東域、エジプト、シリアに比べて全く魅力の乏しく貧しい地域で、そこまでするだけの理由もなかったのが幸いだった。)

その後
トゥール・ポアティエの戦いの戦いによって、アラブ軍は一時的に撃退されたものの、現フランスやスペイン北部キリスト教国領へのアラブ軍の遠征がこれで終わった訳ではなかった。アラブ軍の最後のピレネー越えの遠征は、793年のサーイファ(定期的な夏期の遠征)で司令官アブドゥル・マリク・イブン・ムーギスによるヘロナとナルボンヌの侵攻で、この時は、救援のトゥールーズ伯をも敗り、アラブ軍の大勝利に終わっている。北部キリスト教国領へのアラブ軍の遠征はこの後、後ウマイヤ朝が崩壊するまで続くことになる(1009年のレオンへのシャンジュールの遠征(未遂)が最後)。

事件の背景
事件の発端

イスラム軍は、ロンスボー(ロンセスバリェス)の峠を通ってピレネー山脈を越え、ガスコーニュ地方を襲い、さらにボルドーを占領したうえガロンヌ川右岸でアキテーヌ公ウードの軍を粉砕した。この余勢を駆ってアブド・アッラフマーンは、キリスト教世界最大の聖地の一つであるトゥールのサン・マルタン修道院を目指して北上した。一方、敗北したウードはやむなく宿敵カール・マルテルのもとに赴いて、その援軍を請うた。

この事件に至るまでのアラブ側の事情

そもそもウマイヤ朝カリフは積極的にはスペインに上陸する意志はなかった。当時北アフリカ、即ち地中海南岸を多くの犠牲を払って制圧したアラブにとっては、ジブラル海峡は地の果てであり辺境地域であった。アラブ側の資料によると当時のカリフ(ワリード1世)は次のように語っている。

「暴風吹き荒れる海の危険にムスリム(イスラム教徒)たちをさらさぬよう心するよう」

そうゆう訳で当時イフリーキアの総督に任じられていたムーサー・ブヌ・ヌサイルもそれには消極的であった。しかしながら、当時の西ゴート王国の治世は最悪であったようで、キリスト教徒・ユダヤ教徒共にこれを勧めるものがあり、その協力を得てムーサの部下であるターリク・ブヌ・ジヤードが711年に先陣をきった(この部隊は7,000人であったが、殆どがベルベル族でアラブ人はコーランの教師9名のみであった)。

これを迎え撃ったのが西ゴード王のロデリック率いる約10万人(20万とも謂われる)の大軍であった。決戦は711年7月19日、ターリク・ブヌ・ジヤードは援軍をあわせて約1万2千人でこれを壊滅させた。西欧で起こった初めてのイスラム教軍とキリスト教軍の大戦であった。西欧史ではキリスト教側が勝利したトゥール・ポアティエの戦が異常に誇張され語られるが、客観的に見るならば、これこそが西欧史における重大事件(バルバデの戦い/場所には諸説あり、グアダレテの戦いとの説も有力)であった。異文化の衝突という意味でもその意義は大きい。

カリフに止められていた為、行動を謹んでいたムーサー・ブヌ・ヌサイルはこの成功を得て、やっと重い腰をあげ、アラブ族(名門の子弟を含む)からなる1万8千人の部隊を率いてジブラル海峡を渡った。その後ターリクとムーサは別々にスペインを制圧していき715年までにはスペインをほぼ制圧した。そんな時にダマスクスのカリフ、ワリード1世(第6代カリフ)から帰国する様にとの使いがあり、ターリクとムーサは莫大な財宝と西ゴードの王族約400人、数千人の捕虜・奴隷を連れてダマスクスに凱旋した。

しかしながら、そこで待っていたのはカリフの罵倒であった。勝手な行動(スペイン上陸)をとった罪でムーサは財産を没取され、追放されたのであった。
当時のアラブ中央政府が領土拡張より内政を掌握し確固とするを重視していたことが伺われる。実際、この事件の前後そしてアッバース家によるクーデターがおこる750年までカリフが次々と代わっている(総じてこのようにカリフが次々と代わる時期は政情不安定期、王朝末期である)。

残されたスペインはどうなったのだろうか?ムーサが去ったあと、その子アブドル・アジーズが西ゴート王国最後の王ロデリックの妻と結婚しスペインを統治するが、716年3月にカリフ、スライマーン(ワリード1世の弟:第7代カリフ)が送った刺客により暗殺されている。その後の40年間、アブド・アッラフマーン1世がコルドバのウマイヤ朝を興すまで、スペインは混沌とした状態にあった(一応スペインはアフリカの総督府カイラワーンの預かりとなり、そこから地方総督が派遣されていた)。その40年間の間に起こった事件がトゥール・ポアティエの戦であった訳である。

関連:バルバデの戦い→アラブはイベリア半島(スペイン)の征服者か?解放者か?
参考:イスラム・スペイン時代の統治者の系譜

MEMO
ムーサー・ブヌ・ヌサイル
ウマイヤ朝のカリフ、ワリード1世に708年、イフリーキの総督に任じられた老巧な武将。逸材の誉れ高く、その統制下に頑強に抵抗していたベルベル族をムスリム(イスラム教徒)改宗させ、味方につけ、強大な軍隊を編成した。

ターリク・ブヌ・ジヤード
ムーサの子飼いの部将。ベルベル族。ムーサの元奴隷。
ジブラルタルの地名はターリクが海峡を渡って集結した山「ターリクの山」(アラビア語でジャンバル・アル・ターリク)がなまったもの。

ベルベル族
エジプト以西大西洋岸に渡って居住する白人種の総称。ベルベル(バルバル)とはローマ人が蛮族扱いして呼んだ呼称。アラブ人と同じく多くの部族に分裂し、その風俗や環境もアラブと似通っていた。剽悍で誇り高く、独立と自由を守る為には死をもいとわなかったと言われる。西ローマ帝国を席巻し、北アフリカに渡ったヴァンダル族の末裔の混血もいたに違いない。
このベルベル族の抵抗は凄まじく、アラブ族は僅か2年でスペインを制圧したのに比して、北アフリカを制圧するのには70年もの年月を要した。アラブがスペインに渡ろうとした時期は北アフリカをやっと征服し、ベルベル族との抗争で疲れ果てた(アラブ主力部隊が幾度となく殲滅された)その時であった。

イフリーキア
チュニジア地方をローマ人がアフリカ州(アフリキヤ)と呼んだところからなまってついた名称。北アフリカ東部を指す。一方マグリブはアラビア語の日没の島(ジャジーラ・アル・マグリブ)からきたもので、北アフリカの全体或いは西部を指す。

2006/11/05追記編集


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