イニゴ・アリスタ朝 |
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1 |
818-852 |
イニゴ・アリスタ |
パンプローナ王朝の誕生
●未亡人となった彼の母は、カスィー家の当主と結婚した。その息子がムーサ(後ウマイヤ朝のサラゴサの代官)。
●アブド・アッラフマーン3世の祖母もバスクの王の娘であると伝えられているが、年齢的にはイニゴ・アリスタの娘。
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2 |
852-860 |
ガルシア・イニゲス |
●彼の娘はウマイヤ朝のサラゴサの代官であったカスィー家のムーサの息子ムッタリフの元に嫁いだ。
●860年にガルシア・イニゲスはウマイヤ朝第7代アミールムハンマド1世により、人質としてコルドバに送られそこで結婚した(妻不明)が、その娘ムズナはウマイヤ朝第7代アミール、アブド・アッラーフの息子ムハンマドと結婚した。その子がアブド・アッラフマーン3世(在位912-61、21歳で即位))(「レコンキスタの歴史」+「アラブとしてのスペイン」より)。
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3 |
860-905 |
フォルトゥン・ガルセス |
●ウマイヤ朝により捕虜となりコルドバで20年を過ごしたのち882年に戴冠(「ナバラの歴史」より)。
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ヒメネス朝 |
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4 |
905-925 |
サンチョ・ガルセス1世 |
彼の妻はトダ。レオン王のサンチョ一世は孫。
トダのDNAは、後にスペイン諸王、シシリー王、イングランド王、神聖ローマ帝国皇帝に継がれることになる。 |
5 |
925-970 |
ガルシア・サンチェス1世 |
●恐らく彼の娘がウマイヤ朝第9代アミール、ハカム2世の元に嫁いだ。レオン王のサンチョ一世とは従兄弟。960年カスティーリャ伯フェルナン・ゴンザレスを捕虜にする。 |
6 |
970-974 |
サンチョ・ガルセス2世 |
●彼の娘はウマイヤ朝の宰相アル・マンスールの元に嫁いだ。彼女の子供の名はシャンジュール(小サンチョの意の愛称:本名:アブド・アッラフマーン)。その子が結果的にウマイヤ朝崩壊の引き金をひくことになる(1009年アーミル家革命)。
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7 |
974-1004 |
ガルシア・サンチェス2世 |
999/1000?年アル・マンスールのパンプローナ侵攻 |
8 |
1004-1035 |
サンチョ・ガルセス3世 |
俗称:サンチョ大王
クリュニー改革運動(クリュニー修道院)を受け入れ、サンチアゴ巡礼(サンチアゴ・デ・コンポステラ)を保護するなどそれまで希薄だったピレネー以北との交流を密にする一方、優れた武人でイベリア内ではピレネー中部からカスティリャを経てレオンまでをその支配下に置き、同時代人からイベリア王と呼ばれた。その治世に政情混乱期にあった後ウマイヤ朝を静観、内政に専念した。晩年、領土をナバラ、カスティリャ、アラゴンに三分割して息子たちに継がせ、その後のスペインの展開の基盤をつくった。 |
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ナバラ王国 |
アラゴン王国 |
レオン/カスティーリャ王国 |
9 |
1035-1054 |
ガルシア・サンチェス3世(弟)
1044年トレドのズンヌーン朝のマームーン(ヤフヤ)の要請を受けサラゴサのフード朝の領土を略奪した。
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ラミロ1世(1035-1063)
フェルナンドとガルシアとは腹違いの兄弟
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フェルナンド1世(兄)(1035-1065)
1044年サラゴサのフード朝の要請を受けトレドのズンヌーン朝の領土に侵攻
↓ |
10 |
1054-1076 |
サンチョ・ガルセス4世
(ペニャレン王) |
カスティーリャ王国
レオン・アストゥリアス王国 |
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ナバラ・アラゴン王国 |
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11 |
アラゴン王/1064-1094
ナバラ王/1076-1094 |
サンチョ・ラミレス (ナバラ王サンチョ5世)
1064年、教皇アレキサンデルUの十字軍の教書を発令を受け、アキタニア、ノルマンディ、及びシャンパーニュの騎士の大編成部隊と共に、フード朝下にあったウエスカとバルバストロを襲撃し陥落させた。
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12 |
1094-1104 |
ペトロ1世(ナバラ王) |
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13 |
1104-1134 |
アルフォンソ1世(戦士王)
1118年、大量の南フランスの騎士の援軍を得て、サラゴサを占領。→首都をサラゴサに移す。エブロ川上流のトゥデーラとその周辺のラ・リベラ地方はナバーラ王国領となり、人口が10万人ほどしかないナバーラは、医療、獣医療、運送業、武器や馬具の製作、建築、灌漑農業のノウハウを持つムスリム住民を厚遇した。 |
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ナバラ |
アラゴン |
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14 |
1134-1150 |
ガルシア・ラミレス(復興王) |
ラミロ2世↓ |
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15 |
1150-1194 |
サンチョ6世(賢明王)
妻:カスティーリャ王アルフォンソ7世の次女サンチャ
子:サンチョ、ラミロ(パンプローナ司教)、
ベレンガリア(イングランド王リチャード1世妃)、ブランカ(シャンパーニュ伯ティボー3世妃、ナバラ王テオバルド1世の母)
子:マルガリータ?(シチリア王グリエルモ1世妃)
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バルセロナ・アラゴン連合王国 |
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16 |
1194-1234 |
サンチョ7世(不屈王・隠者王・剛勇王)
ナバラ王家男系最後の王
1200年にアフリカへ遠征。
1212年、カスティーリャ王アルフォンソ8世、アラゴン王ペドロ2世、ポルトガル王アフォンソ2世とともにラス・ナバス・デ・トロサの戦いに参加し、ムワッヒド朝アミールムハンマド・ナースィル率いるイスラム軍を破る。
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フランス王朝(シャンパーニュ家) |
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17 |
1234-1253
シャンパーニュ伯
1201 - 1253 |
テオバルド1世「詩人王」
(シャンパーニュ伯ティボー4世)
サンチョ7世の妹ブランカの息子。生まれる前に父が他界したため、誕生とともに伯位を継承し、遺腹伯と呼ばれたが、21歳になるまでは母ブランシェが国を統治した。
妻:
1220-22年ゲルトルード・ド・ダグスブール
1223-31年アニェス・ド・ボジュー
娘ブランシェ
1232年マルグリット・ド・ブルボン=ダンピエール
長男ティボー5世(テオバルド2世)
次男アンリ3世(エンリケ1世)
*伯父や父の十字軍遠征によりシャンパーニュ伯家は莫大な借金をかかえが、ナバラ王を継いだことにより、莫大な遺産を相続する。フランス王ルイ8世と対立する(アルビジョア十字軍の際にアヴィニョンから勝手に陣払いをしたことで対立が明確になった)。
トルバドゥールとして知られる。
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18 |
b1238-1253-1270
シャンパーニュ伯 |
テオバルド2世「若年王」
(シャンパーニュ伯ティボー5世)
父王の死去によって王位と伯位を嗣いだが、若かったため、母親が1256年まで摂政を務めた。1255年、フランス王ルイ9世の王女イサベル(イザベル)と結婚。
シチリアで死去。
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19 |
1270-1274
シャンパーニュ伯 |
エンリケ1世「肥満王」
(シャンパーニュ伯アンリ3世)
妻:アルトワ伯の娘ブランカ
子:娘ファナ1世
男子なくシャンパーニュ家によるナバラ王家の男系の断絶 |
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20 |
1274-1305
シャンパーニュ伯 |
ファナ1世
(シャンパーニュ女伯ジャンヌ)
フランス王太子フィリップ(後のフィリップ4世、ナバラ王としてはフェリペ1世)と結婚して共同統治を行ない、以後半世紀ほどナバラとフランスは同君連合となった。
子:
ルイ(スペイン語名ルイス、後のルイ10世)
フィリップ(スペイン語名フェリペ、後のフィリップ5世)
シャルル(カルロス、後のシャルル4世)
イザベル(スペイン語名イサベル、イングランド王エドワード2世妃) |
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フランス王朝(カペー家) |
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21 |
1305-1316
シャンパーニュ伯
1305-1314
フランス王
1314-1316
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ルイス・エン・ウティン「喧嘩王」
(ルイ10世)
ファナとフェリペの子長男
シャンパーニュ伯領は、王領へ編入。
息子:フアン1世(ジャン1世)は生後間もなく死亡。
妻:ブルゴーニュ公ロベール2世の公女マルグリート
マルグリートの娘:ファナ(フランス名 ジャンヌ) |
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22 |
1316 フランス王 |
フアン1世(ジャン1世)
ルイ10世の子。
誕生と同時に王位継承するも、まもなく死亡。 |
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23 |
1316-1322
フランス王 |
フェリペ2世
(フランス王フィリップ5世)
ファナとフェリペの子次男
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24 |
1322-1328
フランス王 |
カルロス1世「端麗王」
(フランス王シャルル4世)
ファナとフェリペの子三男
直系男子後継者なくカペー家断絶
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フランス王朝(エヴルー家) |
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25 |
b1312-1328-1349
アングレーム伯
モルタン(Mortain)伯
ロングヴィル
(Longueville)伯 |
ファナ2世JoanU(フランス名 ジャンヌ)
ルイ10世の子
フアナはフランス王位継承権の放棄とナバラ王が兼ねていたシャンパーニュ伯の領地(シャンパーニュとベリー)のフランスへの譲渡と引き換えに、ナバラ王位、アングレーム伯位、モルタン伯位、ロングヴィル伯位を受け取った。
夫:フェリペ3世(フィリップ・デヴルー)共同王
フィリップ3世の三男ルイの息子としてエヴルー伯領を相続し、夫婦はノルマンディー地方やシャンパーニュ地方といったフランス北部に広い領地を持った。
子:2人の間には8人の子供が生まれた。
長男のカルロス(ナバラ王)
長女のマリーはアラゴン王ペドロ4世王妃
次女ブランシェはフランス王フィリップ6世王妃
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26 |
1349-1387
エヴルー伯 |
カルロス2世(悪徳王)
妻:フランス王ジャン2世の王女ジャンヌ |
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27 |
1387-1425 |
カルロス3世(高貴王)
カルロス3世の王子はいずれも夭逝したため、1425年に彼が死去した後は王女のブランカとその夫となっていたアラゴン王フアン2世が王位を嗣いだ。 |
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28 |
1425-d1441 |
ブランカ
カルロス3世の娘
夫:アラゴン王フアン2世(共同王) |
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29 |
1425-1479 |
ジュアン2世 (フアン2世/ジョバンニ1世)
A:B:Ss:1458-1479 |
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30 |
1479 |
レオノール
ブランカとアラゴン王フアン2世の末娘。
夫:Gaston IV(フォア伯)
1455-1478摂政
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31 |
1479-1483 |
フランシスコ・フェボ
レオノールの息子Gaston (1444-1470)の息子
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32 |
1483-1512 |
カタリーナ・ド・ファナ
レオノールの息子Gaston (1444-1470)の娘 |
1512年カスティーリャ軍がナバラを占領、1516年にカスティーリャ法がナバラに適用され、ムスリムは改宗をせまられ、アラゴン領に落ち延びる。 |
33 |
1512- |
フェルナンド2世
(フェルナンド5世/フェルディナンド2世) A:B:Ss:1479-1516/共L:C:1474-1504
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1512年のカスティーリャ軍の占領により、ナバラはカスティーリャ王国に併合され、国家としては消滅するが、ナバラ王家の血統はスペイン王家そのものである。アラゴン・バルセロナ王国、シチリア王国の王フェルナンド2世もその妻で、レオン・カスティーリャ王国の女王イサベル1世も、共にサンチョ・ガルセス3世(ナバラ王1004-1035)のDNAを引き継いでいる。その血統はパンプローナのナバラ王家の直系である。バスク人側から見れば、サンチョ大王(3世)の4代前のトダ・アスナレス(ナバラ王国925-938摂政)以来のスペイン掌握の遠大な野望が600年後に達成されたといえるかもしれない。つまり、フェルナンド2世もサベル1世もバスク人なのであった。そして10世紀に遡るイスラーム帝国後ウマイヤ朝のカリフ、アブド・アッラフマーン三世、ハカム2世、ヒシャーム2世らは、彼らの縁戚に該るわけである。 |
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以後カスティリア王国支配下 |