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在位 |
名 |
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出来事 |
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369-380 |
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Fritigern |
376年ローマの東に帝国建設
ゴート名Frithugairns 「desiring peace」 |
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380-381 |
アタナリック |
Athanaric |
ゴート名Athanareiks「king for the year」 |
1 |
395-410 |
アラリコ1世
(アラリック) |
ALARICO |
ローマを二度略奪。
410年の「ローマの却掠」→一部の上層市民は北アフリカ、パレスティナ、コンスタンチノーブルに逃れ、永遠の都ローマが蛮族によって破壊されてことを大々的に伝える。
ホノリウス帝の妹プラキディアを人質にしてシチリアに渡り、北アフリカのカルタゴに渡る途上難破し、ローマへの帰路、カラブリアのコセンツァで病死。
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2 |
410-415 |
アタウルフォ
(アタウルフ) |
ATAULFO |
アラリックの弟。
412年、ガリアに入る。413年、ナルボンヌ、トゥールズ、ボルドーの3都市を占領、アクイタニア(アキテーヌ)地方に定着。ホノリウス帝の妹プラキディアと結婚(ローマ式)。アクイタニアのローマ人有力者の助力を得てボルドーに行政府を設けるなど親ローマ政策をとる。415年暗殺により死亡。
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3 |
415 |
シヘリコ
(シゲリック) |
SIGERICO
Sigeric
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4 |
415-419 |
バリア
(ウァリア) |
BALIA
Wallia |
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5 |
419-451 |
テオドレオド
(テオドリック1世) |
TEODOREDO |
418年ローマ帝国の実権を握っていた将軍コンスタンティウスが西ゴート族を盟約族としてアクイタニアに定住させる政策をとったことから、盟約によりトゥールーズを都としたローマ領内でのゲルマン人最初の国家を建設。451年フン族進入時にはローマの最大同盟国となった。
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6 |
451-453 |
トゥリスムンド |
TURISMUNDO |
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7 |
453-466 |
テオドリコ2世 |
TEODORICO |
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8 |
466-484 |
エウリコ
(エウリック) |
EURICO |
トゥールーズを拠点とする西ゴート王国の最盛期。ガリアでの領土拡張とイベリア半島での勢力強化に重点を置き、ローマ勢力が残っていたガリアのオーベルニュ地方、プロバンス地方、イベリア半島のタラゴナ地方を武力占領し、その領有をローマ皇帝に承認させる。エウリック王法典編纂。ラテン文学を愛好。*476年オドアケルの乱により西ローマ皇帝退位、事実上帝国西部解体。 |
9 |
484-507 |
アラリコ2世
(アラリック) |
ALARICO |
西ゴート王国内のローマ人のための法典であるアラリック王抄典 Breviarium Alarici編纂。507年Vouill
の戦で、クロービス(メロビング朝)の率いるフランク軍に敗れ戦死。王国は崩壊の危機。東ゴート王国のテオドリック大王の介入で存続。 |
10 |
508-511 |
ヘサレイコ |
GESALEICO |
トロサを放棄 |
11 |
511-526 |
大テオドリコ |
TEODORICO |
テオドリック大王(東ゴート王国) |
12 |
526-531 |
アマラリコ
(アマラリック) |
AMALARICO |
アラリック2世の子.アラリック2世の遺児。少数のゴート人をガリアの地中海沿岸地域に残しただけで、大部分をイベリア半島のカスティリャに移動させる。531年のアマラリックの殺害によって、建国以来世襲的に王位を継承してきたバルト王朝は終りを告げる。 |
13 |
531-548 |
テウディス |
TEUDIS |
東ゴート人王。暗殺。 |
14 |
548-549 |
テオディセロ |
TEUDISELO |
東ゴート人王。暗殺。選挙王制の原理は暗殺が政治手段として多用されるという弊害をもたらした。 |
15 |
549-554 |
アヒラ(アギラ) |
AGILA |
ビザンティン軍上陸の脅威を感じ、宮廷をメリダに移す。
*541年ユスティニアヌス帝、現地人であるイスパノ・ローマ人たちに迎え入れられアンダルシアとグラナダを占領。この戦いでアヒラは敗北セビーリャ近くで戦死。 |
16 |
554-567 |
アタナヒルド
(アタナギルド) |
ATANAGILDO |
トレドに移転。スペイン王朝の始まり。 |
17 |
567-572 |
リウバ1世 |
LIUVA |
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18 |
572-586 |
レオビヒルド
(レオウィギルド) |
LEOVIGILDO |
588年にスエビ王国を征服 |
19 |
586-601 |
レカルド1世
(レカーレド) |
RECAREDO |
アリウス派からカトリックに改宗。ローマ人と西ゴート人の宗教的統一を実現。これによってトレド公会議が単に教会の決議機関というだけでなく王国統治の最も重要な決定機関であるという西ゴート王国独特の政治システムの形成を可能にした。 |
20 |
601-603 |
リウバ2世 |
LIUVA |
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21 |
603-610 |
ビテリコ |
VITERICO |
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22 |
610-612 |
グンデマロ |
GUNDEMARO |
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23 |
612-621 |
シセブト |
SISEBUTO |
バスク地方の分離勢力を平定。 |
24 |
621 |
レカレド2世 |
RECAREDO |
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25 |
612-631 |
スィンティラ |
SUINTILA |
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26 |
631-636 |
シセナンド |
SISENANDO |
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27 |
636-640 |
チンティラ |
CHINTILA |
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28 |
640-642 |
トゥルガ |
TULGA |
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29 |
642-653 |
チンダスビント |
CHINDASVINTO |
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30 |
653-672 |
レセスビント(レケスウィント) |
RECESVINTO |
旧来の属人法を廃し、王国内に住むすべての住民に適用される領域法Liber judiciorum
を発布することで法の統一を成す。 |
31 |
672-680 |
バンバ |
VAMBA |
672年以降国王の選出制度の破綻。チンダスビントとバンバの家系が激しく王位を争う。 |
32 |
680-687 |
エルビヒオ |
ERVIGIO |
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33 |
687-702 |
エヒカ |
EGICA |
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34 |
702-710 |
ビティサ |
VITIZA |
/ヴィティサの息子アヒラは、司教たちに支持され710年に西ゴート王を宣言するが、貴族の多数は、ロドリゴを国王に選んだ。ヴィティサの息子アヒラ、アルダバスト、オルムンドは、北アフリカを進撃中の新興イスラム軍と同盟し、北アフリカから招き寄せた。
/ヴィティサの息子たちは、西ゴート王国全土に広がる約3000の王領地の荘園があてがわれ、兄弟たちは、スペインで最も裕福な土地所有者となった。アヒラには東部、アルダバストには西部、アルムンドには中部が与えられが、その後彼らは引退し、アヒラにはトレド、アルダバストにはコルドバ、アルムンドはセビーリャで私人としての生活を送った。(レコンキスタ/D.W.ローマックス著)
/他の貴族もこれに促されて類似の有利な条件でイスラーム軍に降伏した。
/ヴィティサの弟オパスはセビーリャ大司教、トレド大司教となり、720年のイスラームのアストゥリアス遠征にも参加している。
/レオンの初代王ペラヨ(カンタブリア地方の爵の息子)は彼の近衛兵だったと言われる。
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35 |
710-711 |
ロドリゴ |
RODORIGO |
チンダスビント王(在位642-653)の孫。
/妻エヒロナ |
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711(713) |
西ゴート王国滅亡 |
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タドミール王国711?-743
→西ゴート王国テオドミーロ将軍の国家。アリカンテからムルシア地方に跨がる地域を統治。713年にムスリムと和平協定を結び自治権を獲得。 |