好漢よく好漢を知る(異文化の接触) /カール大帝とアブド・アッラフマーン1世
アラブ側の史家によると、フランクの王カルロ(カール大帝)は、アブド・アッラフマーン1世が極めて賢明で勇敢な人物であることを知り、通婚による同盟を申し込み、戦争の終結を提案したという。アブド・アッラフマーン1世もこれを承諾したが、結婚のことは実を結ばなかったと記している。

賢明な帝王として知られる両者、愚かな戦は避けたいと思ったのだろう。実際両者の間で領土を巡る小競り合いはあったが、直接対決はなかった。全面対決になればとてつもない犠牲が出ることが必至なことは両者が一番分かっていたのではないだろうか?後世の無責任な歴史家が言うようなキリスト教徒対イスラム教徒という憎しみの対立というよりは軍事的・政治的な対立であったように思う。宗教を持ち出したのは民衆の支持を得、戦士の士気を振るい立たせる為の方便にすぎなかったのではないか!

その証拠にフランク王国の歴史家アインハルトによるカール大帝伝には、大帝がペルシャ王アーロン(アッバース朝第5代カリフ:ハルーン・アッラシード)のもとにやった使節が、織物、香料、象、及び水で動く精巧な時計などをもらって帰ってきたという一節がある。

同じ様な使節はきっと周囲の当時の有力な帝国に満遍なく送られていたことだろう。王とはいえ完全に独裁体制を敷いていた訳ではなかったカール大帝は、不安定な内政を安定させるため、諸公に睨みを効かせ、帝国内を駆け巡ったと言われる。そのような状況において、外敵の侵略は致命的で他の諸公に足元をすくわれるとも限らない。そういったこと全てが計算されていた故の使節であったようにも思える。カール大帝という人はきっと、勇猛果敢な性格と冷静沈着な聡明さを兼ね備えた目配りの効く人物であったのだろう。優秀な政治家である。

状況はアブド・アッラフマーン1世にとっても同じであった。アンダルスを制圧したとはいっても様々な民族・宗教が混在する国家である。睨みを効かせていないといつ叛乱によって転覆させられるとも限らない、身内の裏切りもある。当時はそういった状態であった。彼は晩年、直轄の4000人もの親衛隊(優秀な傭兵や奴隷)により身辺を警護させていたといわれている。彼にとっても無用な外敵との大戦は避けたかったに違いない。

そういったことを考え合わせると、同じ立場に置かれ同じ天賦を持ち合わせていた両者、あながち先の逸話も、疑わしい伝承ではないように思われる。
この時代、宗教の違いにばかり気を取られると真実は不明瞭になる。



 
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