南フランスとカタロニアの社会の発展(718-1050)
Archibald R. Lewis
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8世紀前半の南フランス


718年に、フランスの一部であるその南部のロワールとブルゴーニュは、一世紀以上の間その運命に影響を及ぼすことになる2つの政権の間にあった。北に、カロリング朝の家系(Heristalのピピンがアウストラシアとネウストリアに対する支配を確立した家系、その権威は彼の有能な息子(カール・マルテル)によってさらに増強されていた)によって支配された地域があった。南には、(ムーサターリックのアラブ人とベルベルの軍隊によって征服された)スペインがあった(その軍団は、ピレネー山脈を横断し西ヨーロッパの中核地へ前進しようとしていた)。

8世紀前半にこれらの二つの敵と対峙した南部フランスは、全体的に見て政治的結合性が全くない地域であった。それは、4つの比較的異なった地域から成った。これらで最大のものは、ロワール川の南とローヌ川の南に位置するアクィタニアであった(その南の境界は東でナルボンヌに達し、西でガロンヌ川に沿ったガスコーニュの辺境地に達した)。アクィタニアはクロービスの時代からメロビング朝のフランク族の国の一部であったが、8世紀までは、ユードと呼ばれる公爵または君主によって支配された。彼と彼の後継者(HunaldとWaiffre)は、次の50年の間、その運命を支配下に置くことになっていた。

二つ目は、あまり纏まりがないプロヴァンスと知られる公国であった(それはおそらく、リヨンの南とアクィタニアとナルボンヌの東、ローヌ川渓谷(フランスのアルプス山脈の頂上までの)、およそ古代ローマのプロウィンキア(Provincia)によって占められる地域から成った)。プロヴァンスは、貴族の称号を所持した一連の地元の有力者によって支配された。1つの例を除いて、彼らの名前の以外に、これらの貴族についてほとんど何も知られていない。そして、彼らがアクィタニアの君主のような同じ家系に属したかどうかことさえ、知られていない。プロヴァンスは、アクィタニアのように、名目上長い間、メロビング朝のフランク族の州の一部であった(ダゴベルトが死亡したすぐ後、なんとか現地の王の下でかなりのかなりの自治を成し遂げることができたけれども)。

地中海の岸に沿ったプロヴァンスの西に、ナルボンヌまたはセプティマニアと呼ばれた、南フランスの3番目の地域があった。アクィタニアとプロヴァンスとは異なり、ナルボンヌはメロビング朝によって征服されはしなかった。その代わりに、300年の間そこは、西ゴート族の支配下にあった。その境界は、東ではローヌ川、北では、Uzes、ロデーブ、カルカソンヌのような一連の要塞都市、西ではバスク人が住むピレネーの高地、そして南ではピレネー山脈と地中海に至っていたようである。それは、アクィタニアやプロヴァンスとは別の政治史を経たが、彼らの様にそれは自治能力を持っていたようである。そして、7世紀後半に、それは重大な反乱に繋がった(Paul呼ばれる地元のゴート族の有力者、西ゴート族のスペイン王ヴァンバ(Wamba)によって鎮圧された蜂起)。

南フランスの4番目の地域は、ピレネー山脈の北の残りの南フランスの地域を占めたガスコーニュであった。ガスコーニュの境界を正確に示すのは、非常に難しい。後のカロリング朝の著述家は、ガスコーニュ人がガロンヌ川の全域、そして、ピレネー山脈の間で生活したと述べることによって、それを要約した。彼の先例に従って、我々は、カルカソンヌとルーシヨンが東境界線を形成し、ガロンヌ川がその北の境界で、大西洋がその西の一方で、ピレネー山脈がその南の一方であると推量できるかもしれない。一方で、ボルドーとボーデン島がこの時期に、ガスコーニュの一部であったかアクィタニアの一部であったかは、不明確である。(彼等の内の南の)別のバスク人たちが北部スペインで生活していたので、ピレネー山脈がガスコーニュの南の境界を形成していたと確定するのは同じように難しい。これらのスペインのバスク人たち(彼らは、人種と文化の点で、彼らのフランスのガスコーニュ人の同胞と同じだった)は、スペイン本土、パラスのサラゴサの北西部、Ribagorca、アラゴン、ナバラ、アストゥリアスに広がり、通常、スペインの西ゴート族の支配者たちから独立し、時には敵対関係にあった。彼らは、ピレネー山脈の北で暮らしたそれらのガスコーニュ人たちとの緊密な関係を維持したようである。これがいくつかの纏まりのある政治的結束を示したということは、しかしながら、疑わしく思える。なぜならば、この時期に、フランスのバスク人たちは、ループ(Loup)またはルーポ(Lupo)の名前がついていた土着の一族の公爵或いは王によって支配されていたからである。彼らは、スペインのバスク人のように、ナルボンヌとアクィタニアの隣人たちから独立していた。


  
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700年頃の南フランス/出展:http://libro.uca.edu/lewis/sfcatsoc.htm


もう一つの地域が付け加えられるかもしれない。カタロニアである。それは778年以降に南部フランスと密接に関係をもつことになる(それ以前に関係はなかったものの)。713-714年の時点では、しかしながら、カタロニアは、ムーア人に制圧されていた(彼らはウルヘル地域の可能性を除いて、それを支配した)。そしてそこには、自治の先住民の教会と修道院の伝統が存続したいくらかの証拠がある。それでも、ここでさえ、慎重でなければならない。なぜなら、北スペインのこの部分の全てが、ムスリムによって完全に征服されたというわけではなく、反体制派の西ゴート人の貴族によって彼らに譲り渡されたという、証拠があるからである。その一人である、ある男(Cassius)は、キリスト教会の信仰を捨て、その地方に重要なイスラムの王朝を建設した(バヌ・カシBanu Kasi)。この章によって取り扱われる期間、カタロニアは、南フランスの運命よりもイスラム・スペインの続きの運命に従った。

南フランスとスペインの境界の政治的地理学はこの程度にするが、その教会の境界はどうであろうか?セプティマニアだけで、政治と教会の境界が一致していた。ナルボンヌは、7つの司教区から成った:エルヌ、カルカソンヌ、ベジエ、アグド、マグロンヌ、ロデーブ、ニーム、Uzesは、ナルボンヌの大司教下にあった。一方で、プロバンスは、ずっと過剰ほど多くの大都市圏を受け持った:下ローヌ川近くのエクス、アンブラン、アルル、そしてずっと北のリヨンとビエンヌ。

アクィタニアとガスコーニュでは、さらに複雑な状態にあった。7世紀後半まで、3の大司教の職が、フランスのこの地域にあった。ブールジュの大司教は、北部と中央アクィタニアの司教の上にあった。ボルドーの大司教は、南部アクィタニアとおそらく西ガスコーニュの一部を支配した。Couseransの大司教が、残りのガスコーニュである。ガスコーニュには、独自の特別な司教もいたかもしれない。プロヴァンスの様に、当時、ロワール川の西フランス南部では、セプティマニアの教区は曖昧である。

詳細に南部フランスのプレ・カロリング朝の統治のシステムを調べようとしても、上記の概略よりさらに証拠が乏しい。8世紀の初期の間、ナルボンヌが伯爵によって支配され、西ゴート人が、ナルボンヌで造幣局を操業していた証拠がある。我々はアクィタニアでも、伯爵たちについて伝え聞く。そこで、およそ650年頃に聖ディディエーの兄弟はアルビの伯爵であった。そして、そこでWaiffre公爵の時期に、類似した関係筋が、ポアトゥー、ベリー、オーベルニュで見られる。一方で、伯爵たちがプロヴァンスに、この期間にわたって存在したという証拠がある(その貴族が確かにcomitalな権力を行使したものの)。ガスコーニュに関しては言えば、プレ・カロリング朝の時期に伯爵がいなかったことは、明白なようである(ただ一人の名の知られた統治者は、族長と一族を取り仕切ったと思われるその首領と族長である。アクィタニアとナルボンヌの伯爵は、(カロリング朝の後継者として)地元の軍隊を戦いに導き、少なくとも、彼らが支配した地域にある要塞のいくつかを支配した。プロヴァンスからの数少ない証拠は、その貴族たちに類似した権限があったことを示唆する。

他方、そのような伯爵によって南フランスのこのような伯爵たちによって演じられた裁判の役割、法廷制度の存在の存在自体もについて何も知られていない(プロヴァンスで貴族が合法的な資格で行動することができて、実際に行動したといういくつかの顕れを除いて)。我々が条件付で確約をもって言うことができるのは、西ゴート人の法律がナルボンヌで適用されていたということと、ローマ法は、アクィタニアとローヌ川の渓谷で存続したということである。ガスコーニュでは、(分かっているのは)どちらも使われていなかった様である。

プレ・カロリング朝の制度があった証拠が、我々の思いに反してあまりに少ないとしても、南フランスのプレ・カロリング朝の軍の組織に関してはより知られている。カール・マルテルとChildebrandは、フランク人とブルゴーニュ人の召集軍隊と共にローヌ川の下流の渓谷を進軍した時、プロヴァンスの主要な都市(アルルとアビニョンのような)が包囲攻撃をするのにはあまりに手ごわい防壁により守られることを知った。同じことが、Uzes、ニーム、Mauguio、アグド、ベジエ、カルカソンヌと特にナルボンヌなどのセプティマニアの都市(civitates)にもあてはまったようである。この地域には、678年のニームとマグロンヌの間に存在していたと云われる、ミリアの要塞都市のような要塞化された都市の外に位置するcastella(城)もあった。

アクィタニアでは、聖ディディエ(Didier)が、650年頃に、カオールの壁を再建し、(カオールのカストラム・マーキュリオ自体と同様に)都市の城(castella)を再建したということが突き止められている。同じ時期の、ボルドーの近くのカストラム・ガルノモについて伝えられている。8世紀の少し後に、おそらくルピュイには、Velayに砦があった。トゥールーズがムスリムによって攻撃された8世紀前半には、そこには明らかに防備施設があった。

その後の735年頃に、ボルドーの近くのブラビアのカストラムとその都市の郊外の他のカストラムのことが伝えられている。そしてピピンが761年と768年の間にアクィタニアを征服した時、至る所に類似した防備施設があったことが伝えられている。我々の知るところでは、この地域のブールジュ、リモージュ、ポアティエ、サント、クレルモン、ペリゴール、アングレームのような主要な都市(civitates)が要塞化されていたのは明らかである。ポアトゥーのツアール、オーベルニュのCastelluc、ベリーのブルボン、下リムーザンのテュレンヌ、ケルシーのScalas、ペリゴールのPerruceの様ないくつもの独立した要塞、そしていくつもの他の特定されてないcastellaとroccasもあった。

南アクィタニアで7世紀後半の教会評議会が、聖職者による軍隊の動員と戦争の遂行を禁じなければならなかったほど、戦争のプロが一般的なものであったという証拠もある。ナルボンヌとアクィタニアには、ムーア人とカロリング朝の様な侵入に対抗する伯爵と族長によって率いられる軍事部門があった。聖ディディエーの兄弟の暗殺は、我々にケルシーとAlbigeoisの社会(アボウの遺言が、739年に、彼が征服によって得た土地に言及した様に、それは、無秩序で不穏だった)を見せてくれる。

一方で、プレ・カロリング朝南フランスが、フランクが起源のvassiの様な組織化された軍事部門(カール・マルテルが教会の地所で強化し、戦闘で彼と彼の後継者に従った)を備えていなかったということも示している様に思われる。カロリング朝がローヌ川に進軍した時、彼らはMaurontius(プロヴァンスの貴族)がイスラム軍隊に彼の都市に守備隊を置くよう促したのを知った(おそらく、彼が、十分な彼自身の戦士を召集することができなかった為)。そしてアクィタニアでは、ピピンの最後の9年間の軍事行動の間、何度もガスコーニュ人(おそらく傭兵たち)への言及があった。そして、彼は、少なくとも、Waiffre公爵と彼の伯爵を利用した召集部隊を組織した。一方で、セプティマニア或いはガスコーニュには、そのような外部の補助部隊活用の証拠は全くない。

プレ・カロリング朝の教会組織に目を向けても、南フランスの彼らの軍事行動の間の、少なからずのムスリムとカロリング朝双方による教会記録の破壊の為、ほとんど見出すことができない。たとえば、ナルボンヌのプレ・カロリング朝の修道院の名前以上が分かっていない。そしてそれは、Urgellのそれらとは異なり、ムスリムの占領を生き残れなかったのではないかと思わせる。プロヴァンスでは、マルセーユとLerinsの聖ヴィクターVictorがこの地域のプレ・カロリング朝の修道院の機関の活動を続けていたことだけが確証できる。アクィタニアに関しては、より多くの情報がある(しかしそれでもなお、数世代に渡る詳細な情報でない)。

しかしながら、我々の知識から浮かび上がるのは、支配する土地所有階級と密接な関係を持つ教会と修道院のシステムの状態である。これはこの時期の革新でなく、むしろ、ローマ末期と初期のメロビング朝の時代から存在した状況の継続を意味した。このように、Aredusと彼の孫の例(572-573年に、彼は、かなりの土地から成る資産をリムザン州の聖MartialとVigeoisの修道院に寄付したようである)は、次の2世紀に繰り返された。7世紀のViviersの教会への土地の寄付の記録と同じ時期を端緒とするQuercyと Toulousainの教会と修道院に寄贈されたものから、これが分かっている。新たな修道院も設立されていた(カオールの聖ディディエーによって設立された聖ジェリーの修道院のケース、または680年にNizeziusに属している不動産を得た新たに設立されたモアサックのそれか知ることができる)。後の739年頃に、Abboは、新たに設立されたイタリアのNovaleseの修道院に、彼の中ローヌ地域の莫大な土地を残した。

聖ディディエーの伝記(それは、その司教がいかに南フランスの再び教会を密接に絡んだかを説明するより、彼がケルシー(Quercy)の統治者の様に振舞った人物であったこと示している)は、その地域の統治システムに同意していた。そうして、マルセーユの聖Victorの修道院にプロヴァンスの貴族による寄贈がなされ、(後の時代に見られた様に)780年に、この都市の老齢の司教がその最後の貴族と同じ姓をつけた。ガスコーニュを除いて、一方の司教と修道院と一方の伯爵と主要な地主との緊密な協力関係が存在した様に思われる。

これは、我々に、8世紀の初期の南フランスの経済活動について考えさせる(ムーア人とカロリング朝の干渉の直前に)。この時期は、この地域によって促進された外部との交易が、明白な衰退の状態にあったことは明らかである。たとえば、南部フランスの都市(civitates)には、(一世紀前にあった様な)シリアとギリシアの商人の存在を示す証拠がない。しかしながら、我々は、依然として、上質の絹に関する事例を見いだすことができる。そして、後のカロリング朝の証拠から判断して、若干のユダヤ商人のコロニーがまだ残っていた可能性がある。

同時に、使われていた硬貨の興味深い変化に気がつく。7世紀の末期の当時の報告書は、ケルシー(Quercy)とToulousainで使われていた金について言及している(ボルドーで、そしてロワール川とローヌ川に沿って貯蔵された硬貨に鋳造された金によって確信される様に思われる事実)。718年には、しかしながら、これはもはや事実でなかったようである。銀が、交換媒介物として金にとって代わったようである。それはナルボンヌとアクィタニアで鋳造され、ガロンヌ川のPlaissacとプロヴァンスのCimiezでの様に、貯蔵に見いだされる唯一の金属である。そのような硬貨の貯蔵物も、南フランス(特にローヌ川で)で発達した経済的地域性を明らかにする(それらが、アクィタニアの西岸に沿ってボルドーへ、その後ガロンヌ川に沿ってナルボンヌとマルセーユへの、依然として活発であった交易ルートを示すように思われるものの)。いくらかの香料と東洋の商品が8世紀前半に依然としてFosに到着していたという、幾つかの証拠もある。しかしながら、以前のメロビング朝の時代と比較して、718年には、南フランスは、以前より北ヨーロッパと地中海の主要な交易の流れから孤立していた様である。

この全てが、南フランスの土地で、その最も重要な富の源泉を生み出すのに貢献した。そして、この土地の富は、ローマ末期とメロビング朝初期に所有されたのと全く同様に、依然として、8世紀初期に保たれていたことは明らかであるように思われる。それは、殆ど依然として、シドニウスとアウィトゥスの時代に見られるガロ・ローマの貴族と同じタイプの管理下にあった。しかしながら、そのような一族が土地の所有の独占をしていたと思われるべきではない。彼らと並んで、かなりのフランクの領域が見られる(Limousin、Rouergue、Albigeoisに多く、そして、遥か南のカルカソンヌにもある)。西ゴート人の領域は、この同時期の、ナルボンヌにも存在する。当時の報告書に記載されたこのフランク族の領域が見出される(アクィタニアのウードEudes公が721年にトゥールーズの近くでイスラム教徒と対戦し、勝利した時、彼の軍はフランクス人とアクィタニア人から組織されたと言われている為)。彼の名前ウード(Eudes)から判断すると、彼自身は、フランク族出身であった。カロリング朝のずっと前、そしてその後、かなりのフランク族の領域がアクィタニアの地域に定まっていた。フランクス族とブルゴーニュ人がカール・マルテルの時代以前にローヌ川の中流と下流に定住していたことも、強調されるべきである。アボウAbbo(プロヴァンスの貴族)は、フランク語の名前を持っていた。そして、彼の遺書で彼が言及する使用人の間に、同じような北のフランク人のあだ名を見られる。

8世紀はじめまでに、そのようなフランク族とブルゴーニュ人の領域が、主にプロヴァンスとアクィタニアで優勢なガロ・ローマの住民に吸収されたということは、大いにありえそうである(西ゴート人の領域がセプティマニアの元来のガロ・ローマの社会の一部になっていた様に)。ガスコーニュだけで、純粋な血統を示すものが見られるかもしれない。そして、ここでも、Couseransとボーデン島に、ガスコーニュ人が以前のガロ・ローマの地域であった所にすでに進出していたというなにかしらかの証拠があるかもしれない。

その所有者がガロ・ローマン人であれ、フランク族であれ、ブルゴーニュ人であれ、そして西ゴート族出身者であれ、しかしながら、そのヴィッラは、依然として優勢な土地所有権の単位であった(ローマ時代末期以来の)。例えば、聖ディディエーは、彼がQuercyで設立した修道院と教会(彼はそこでそしてAlbigeoisで再建した)への寄贈として、ヴィッラを捧げた。我々の情報源は、タルンとガロンヌの間に位置するNizeziusの不動産680年にヴィッラとして整理されたことを明らかにしている。我々は、mansiの様に、Vivaraisで述べられたヴィッラを見いだす。プロヴァンス(マルセーユの周縁の)では、ヴィッラ(colonicasから成る)が行き渡っていた様に思われる。一方で、Dauphinyのような北部では、アボウの遺言は、ローヌ川で使われた土地と同じ傾向を示している。この見解は、推測に基づくに過ぎないものの、同じ事がナルボンヌでもあてはまる思う正当な理由がある。

この時期の一部の地主は、1つ或いは2つだけのヴィッラを管理した。しかしながら、より典型的な広大な不動産の所有者たちの部類があったようである(アクィタニアの聖ディディエーとNizeziusのような者たち、或いはVelayの彼らの様な者たちや、Dauphinyで広大な資産を所有したアボウのような有力者たち)。そして、このような不動産を所有する者たちは男だけではなかった。我々はBobila(Quercyのsenatrix Romana)のような女性を見いだす。そして、彼女らは自分自身の資産を所有した。我々は、ローマ時代末期に彼らが所有したようなヴィッラに居住する多くのセルウィ(servi)またはコロヌスの階級を、見いだす(一団の自由民も存在したようであるけれども)。上流階級のための土地所有に行き渡ったシステムが自由保有地制であったこと、そして土地保有者たちは、彼らの不動産を自由に売ることができ、またそうし、そうしようと思い、あるいは、それらを修道院と教会に寄贈した。

残念なことに、南フランスでこの時期から始まるプレカリアprecariaとベネディキアbeneficiaの例は、それらの正確な性質或いはそれらが与えられた状況について確定するのが難しい程少ない。Gedeonの場合、与えられたプレカリウムprecariumが生存期の間のことであり、彼がそれに対して土地と金銭の双方で決められた支払いをしなければならなかったことは、明白である。我々がほとんど知らない他の事柄に関していうと、特定のケースを除いて、それらは、兵役に対する見返りを求められることなく、上流階級の独占ではなかった。自由民に貸与される、アボウのプレカリア(precaria/{貸与地:訳注})のいくつかは、これを明白にしている。しかしながら、より重要であるように思われるものは、プレカリウムprecariumがしばしば、資産に対する権利を処理するこの方法を選んだ、自由保有地の土地所有者によって与えられた個人的許可であった、これらの例から導き出されるうる証拠であることである。プレカリウムprecariumは、それから、その所有者によって定められる特定の状況の下で、自由保有地を使う権利であった。西ゴート族のスペイン或いはロンバルト人のイタリアの場合の様に、南フランスでは、カロリング朝の時期以前に、ベネディキアbeneficia或いはプレカリアprecariaと呼ばれる土地の条件つき貸与が存在した。

最後に、これらの期間の南フランスの土地に関して、ある言葉が、適切であるように思われる。どれくらいの空き地或いは未耕作地が、あったのか?ナルボンヌ、ルーシヨン、ローヌ、アクィタニア、そしてカタロニアには、後のカロリング朝の時代に、無数にそれがあったことが分かっている。大部分の歴史家は、718年と778年の間の、南フランスの無秩序な60年に注意をうながすことによってこの事実を説明する傾向があった。言い換えると、彼らは、彼らがそのような状態の起因とした、荒廃に関して、侵入したムスリムとカロリング朝の軍隊を非難してきた。

そのような見解は、控え目に言っても、誇張されているように思える。2つの侵略(722年頃にオータンに進軍したもの、そしてもう一つは732年のポアティエのもの)を除いて、ムスリム急襲はナルボンヌ、Rouergue、Albigeois、Velay、ローヌ川下流に限定された、そして、ここでさえ、彼らは二、三十年だけ持ちこたえただけであるように思われる。736年と739年間のカロリング朝のローヌ川の征圧は、短期間の事件であって、カロリング朝のセプティマニアでの活動は、同時期と752-760年に限定されていたように思われる(その時期、この地域と近くの南アクィタニアの支配が、最終的に完了された)。残りのアクィタニアのピピンの征服は、(破壊的であったけれども)761年と768年の間の8年間に渡って起こった。ガスコーニュは、769年までの、そして再度778年のカロリング朝の軍隊によっては、編入されなかった(サラゴサに対する軍事行動の期間)。

このように、ムスリムの軍事活動も、カロリング朝の対抗者も、その一部を説明する助けにはなるものの、778年以降の南フランスで見られる広大な未耕作地を十分に説明するには至らない。そうすると、我々はもう一つ別の解決案を探し出さなければならない。おそらく、最も満足できる理由は、南フランスの社会(そして、これはカタロニアを含む)が、718年以前の時期にあまり効果的に土地の活用を始めていなかった事実にある。ヴィッラのシステム(それは依然として土地所有者の管理方法であったようである)は、そのようなヴィッラに住んでいたコロヌスが彼ら自身のために耕すことを望んだかもしれない、単に新しい土地に居住する方法とはならなかった様に思われる。そして、南フランスの教会がこの点でより積極的であったといういかなる根拠もない。カロリング朝が新たな領地政策が確立するまで、南フランスの荒廃した場所は、鋤が置かれ、或いは有効利用されず、これは、新らたな違う時代に事であった。

このような状態が当時の、ムスリムとカロリング朝の干渉の直前の南フランスの社会の構図であった。それは広大な地所(おそらくガスコーニュを除いて)から成る地域であった(それは通常、農奴のようなコロヌスによって耕作され、プレカリアの様にそれを活用した自由保有地の土地所有者の上流階級によって管理された)。それは、教会は、(ガスコーニュを除いて)同じ土地所有階級と密接な関係を持ち、4つの大きな地方に分けられた政府が伯爵と類似した当局の管理下に置かれたように思われる地域であった。その地域全体で、(またしてもガスコーニュを除いて)ローマと西ゴート族の法が残存し、上流階級(しばしば兵士と戦っていた)は、彼ら自身を守る為に、ある程度、城と他の要塞を頼りにした。しかしながら、その社会は、政府も軍隊もうまく組織されておらず、経済はますます地域的になったものであった。二つの兄弟な隣人である、ムスリムとカロリング朝は、間もなく、その問題に介入し、新しく異なる時代にそれを連れて行くことになっていた。

08/04/29


参考
プレカリアprecaria
:プレケース(請願)にもとづいて譲渡される恩恵的土地貸与および貸与地をさす。ローマ時代の私人間の随時取消し可能なプレカリウム precariumとちがい、フランク時代および中世のプレカリアは,主として教会による俗人への土地貸与であり保有者は一般に低額の年地代を支払って終身または親子2代にわたる用益権を認められており(のち世襲保有)契約的性格が強い。
ベネディキアbeneficia:
ベネフィキウムbeneficium:ラテン語で〈恩恵〉ないし〈好意〉を意味する。メロビング朝時代には恩恵の対象である土地もベネフィキウム(恩貸地)の名で呼ばれるようになる。ベネフィキウムは恩恵的貸与であるため、しばしばプレカリア(貸与,貸与地)と同義で用いられた。保有者は一定期間(通常終身)の用益権を認められる代りに、なんらかの貢納や奉仕を義務づけられた。カロリング朝諸君主が教会領の大規模な収公を行って、それを臣下に軍事義務と引換えにベネフィキウムとして譲与して以来、ベネフィキウムは、しだいに従臣の生活を物的に保障する封土とみなされるようになる。
ラングドックLanguedoc

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