アル・マンスール(ムハンマド・イブン・アビ・アーミル)/al‐Mansur (?‐1002)
本名は、ムハンマド・イブン・アビ・アーミル。彼が属するアーミル家の先祖はヤマン出身のマーフィル族に属し、ターリクの遠征軍に加わったアラブ族とされている。その戦功によってアルヘシラス付近の土地を与えられた。一族の多くは、コルドバに住み、多くの法学者や裁判官(カーディー)を輩出した。彼の祖父もセビーリャの裁判官(895-903)。彼自身も少年期から当代一流の学者について勉学した。976年ハカム2世の死後、(第10代、第14代アミール)皇太子のヒシャーム2世(当時11歳、母后スブスはマンスールの愛人であったとされている)を擁立し、後ウマイヤ朝のビザール(大臣:ワジール)、978年ハージブ(従来出納官の意、実質的な最高権力者)の地位に就く。981年ラカブ、アル・マンスール・ビッラー(神によって勝利を与えられたもの)をとる。この時代、スペイン・ポルトガルの北部を除く半島の大部分を領土とする。またマンスールは継続的に対外派兵(例:997年サッンチャゴ・デ・コンポステーラの破壊)を行い、同朝の領域は北アフリカの一部をも含むにいたった。

結婚/後継
@有力辺境軍司令官ガーリブの娘ジェルファー
→子供:長子アブドッラー: 次男アブドゥル・マリク
Aイスラームに改宗したナバーラ王女アブダと結婚
→子供:シャンジュール/サンチェロ/サンジェイロ(小サンチョの意の愛称:本名:アブド・アッラフマーン)
Bレオン王女(ベルムード2世の娘?)と結婚(993)
→子供:なし

マンスール後のアーミル家の系譜
マンスールの死後(1002-)、後ウマイヤ朝の分裂は急速に進む。マンスールの生存中に北部のキリスト教国を服従させ、北アフリカにまで勢力範囲を拡大させた後ウマイヤ帝国は、僅か30年の間に崩壊し、自滅の道を進むことになる。
マンスール

長子アブドッラー(母:ジェルファー)は989年叛乱を起こし990年にマンスールにより処刑。
次男アブドゥルマリク(母:ジェルファー)。ラカブは、アル・ムザッファル(勝利を授かったもの)。-1008没33歳。
アーミル家のサカーリバが政治の実権を握る。

アブドゥル・マリクの弟シャンジュール(母:アブダ)。ラカブは、アル・マームーン(安んじられるもの)。-1009没。
有能であったが、実権を握ってカリフの様に振る舞い、ベルベル人を重用することにより、ウマイヤ家、官僚貴族、市民の反発を強めた。

1009年反アーミル家革命
アル・マフディ(
ムハンマド2世/第11・13代アミール)を擁立した、コルドバの市民軍は、ヒシャーム2世(第10・14代アミール)に譲位を迫り、アーミル家一族を殺害したが、サカーリバは無抵抗で降伏。
ザフラー宮殿の西隣のアル・アーミリーヤと宮殿政治都市アル・マディーナトゥッ・ザーヒラは、この時に破壊され、跡形もなくなるほど徹底的に破壊された。
革命の二週間後、シャンジュールは、革命側により殺害。
この叛乱で、アーミル家の生残の一部は、サラゴサなど北部の都市に保護を求めて逃れ、アーミル家のマワーリーであった多くのサカーリバは東海岸に逃亡し、住民を抑えて小政権を樹立するようになる。特に、バレンシアでは、純粋なサカーリバだけでなく、アーミル家のマワーリーであったフランク人やバスク人も集って高い地位を占めるようになった。そして、多くの学者、官僚、裕福者、職人もここに避難し、壮麗な建物や庭園が建てられ、コルドバと同様の洗練された暮らしが行われるようになった。

1021年、バレンシアのサカーリバたちは、アーミル家のアブドゥルアズィーズ(サラゴサのトゥージーブ家の保護下にあった)を統治者として招き入れる。

革命後のコルドバ
ベルベル族とコルドバ市民の対立激化

アル・マフディ(
ムハンマド2世/第11・13代アミール)を擁立したコルドバ市民とアル・ムスタイーン(スライマーン/第12・15代アミール)を擁立したベルベル族の対立。→クライシュ族の系譜参照
当時後ウマイヤ朝の臣従国であったカスティーリャ伯サンチョ・ガルシア(995-1017)はベルベル族側に加勢し、ベルベル族とカスティーリャの連合軍は、1009年11月にコルドバを襲い市民軍を敗る。 アル・マフディ(ムハンマド2世)は逃れる。

アル・ムスタイーン(スライマーン)は正式にカリフとなり、ベルベルと市民の融和に努めるが、難航する。このときザフラー宮はベルベル族の拠点となる。

1010年5月シャンジュール時代の辺境軍司令官、ワーディフ(サカーリバ)は、バルセローナ伯ラモン・ブレイと共謀し、コルドバを襲撃、ベルベル族軍はこれに対し出陣するが、コルドバ市民はバルセローナ兵と共にザフラー宮、ベルベルの財産を略奪する。ワーディフは アル・マフディ(ムハンマド2世)を殺害、
ヒシャーム2世を復位させるが、ベルベル族との和解に失敗。

コルドバを逃れ、アンダルス南部のマラガ、エルビーラ、ハエン、アルヘシラスを占領したベルベル族はコルドバを包囲し1010年11月にザフラー宮を占領し、軍営を置き、コルドバを2年半に渡って包囲。1013年5月、コルドバ市民降伏。ベルベル族は
ヒシャーム2世を退位させ、アル・ムスタイーン(スライマーン)を復位させる。

ベルベル王朝の成立/コルドバ北部や東海岸の諸地域はこれに従わず独立し、小国分立(ターイファ)の時代が始まる。

ベルベル系のハンムード家出身者3人が相次いでカリフ位を奪い、さらにカリフ(第24代アミール)、ヒシャーム3世(ウマイヤ家の血筋)がハンムード家によりコルドバを追放され、内紛の下、1031年に後ウマイヤ朝は名実共に滅ぶ。

建築
978年?頃、ザフラー宮殿の西隣に、アル・アーミリーヤを建設する(現在発掘されている)。1009年破壊。
979年-981年、コルドバの東郊に宮殿政治都市アル・マディーナトゥッ・ザーヒラを建設する(現在未発見)。1009年破壊。
987年に、コルドバのモスク(メスキータ)の礼拝堂の3度目最後の拡張を行う。北側に8廊が付け加えられ、それに伴い中庭を拡張された。

参考文献
:アラブとしてのスペイン/余部福三/第三書館
:イスラームの蔭に/前嶋信次/河出書房新社

05/10/11
05/11/03//2006/10/08加筆修正
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