Zirids/ズィーリー朝(ジーリーorジールと表記されることもある)   972-1152(48:アルジェリア)
ズィーリー朝は、同時代のアッバース朝、ファーティマ朝、後ウマイヤ朝という三大カリフ国の影に隠れて、文献に登場することも少ないが、実はその一族そしてその分派は、それぞれのカリフ国との関わりが深く、アンダルシア(スペイン)、マグリブ(北アフリカ西部)、イフリキヤ(北アフリカ東部)、シシリー(イタリア)に渡る文化伝播の一媒体としての役割を担ったと考えられる。創設の本拠はチュニジアにあったが、分派はアルジェリアのハンマード朝、アンダルスのズィーリー朝に広がる。

イフリキヤとマグリブで972年から1152(48?)年まで栄えた独立王朝。ベルベル系サンハージャ族のズィーリーは、最初、ファーティマ朝の第2代カリフ、カーイム(在位934-946)を支持し、中央マグリブの統治者して935/36年にアルジェリアの南東のアーシルの宮殿を建設した。972年にファーティマ朝が本拠地をエジプトに移すと、その息子ユースフ・ブルッギンは4代カリフ、ムイッズ(在位953-975)を支持し、イフリーキーヤの総督に任命されると、972年にズィーリー朝を創始した。第2代当主アルマンスール・ブン・ブルッギン(在位983-995)の頃から、ファーティマ朝との関係が悪化し、1041年にズィーリー朝はカイロのファーティマ朝に対抗し、アッバース朝のカリフ国を公認し、1048年ファーティマ朝からの独立を宣言したが、ファーティマ朝の第8代カリフ、ムスタンシル(在位1036-94)は、略奪的集団であるベドウィーン種族、バヌ・ヒラール(Banu Hilal)を送ることにより報復した為、イフリキヤは荒廃し、内陸の豊穣な農地を失ったズィーリー朝は交易に活路を求めた。バヌ・ヒラールの攻撃により1057年カイラワーンをも失ったズィーリー朝は首都マフディーアと地中海沿岸を断片的に支配するのみとなった。1146年から1148年には、シシリー島のノルマン王朝から沿岸の都市が侵略を受けチュニジアの王朝が1148年に滅び、1152年にはアルジェリアにおこったムワッヒド朝によりアルジェリアのハンマード朝が滅ぼされた。
*1148-1159年、チュニジアはシチリア王国の統治下に置かれる(パレルモのジーザ宮殿参照)。1159年ムワッヒド朝により征服される。

チュニジア(イフリキヤ)のズィーリー朝の支配者(参考サイト:Wikipedia)
Abul-Futuh Sayf ad-Dawla Buluggin ibn Ziri (973-983)
Abul-Fat'h al-Mansur ibn Buluggin (983-995)
Abu Qatada Nasir ad-Dawla Badis ibn Mansur (995-1015)
Sharaf ad-Dawla al-Muizz ibn Badis (1015-1062)
Abu Tahir Tamim ibn al-Muizz (1062-1108)
Yahya ibn Tamim (1108-1131)
Ali ibn Yahya (1115-)
Abul-Hasan al-Hasan ibn Ali (1121-1148)



アルジェリア(アマグリブ)の分派(ハンマード朝):1014/5-1152
第2代当主アルマンスール・ブン・ブルッギン(在位983-995)は、弟ハンマード・ブン・ブルッギン・ブン・ズィーリーを、中央マグリブ(アルジェリア)の統治者に任命した。彼は1007年に、カラート・ベニ・ハンマード(Qalaat Beni Hammad)にカルア(al-Qala)の宮殿を建設し、1014年にチュニジアのズィーリー朝からの独立を宣言し、ファーティマ朝ではなく、アッバース朝のカリフの宗主権を認めた。ここにアルジェリアのハンマード朝が始まる。当初はチュニジアのズィーリー朝との確執があったが、1018年独立が認められた。またハンマードの後継者アルカイドは、彼の治世にファーティマ朝との関係を修復した。彼らは、1090年にバヌ・ヒラールの攻撃を受けた際、一時Bejaia(V'gayetブウギー)に移っている。カルアの宮殿の建設は王朝が滅ぶ1152年まで断続的に続けられた。

ハンマード朝の支配者
Hammad ibn Buluggin(1014-1028)

Al-Qaid(1028-1054)
?

参考サイト:Wikipedia
参考文献:本の友社図説世界建築史イスラム建築ジョン・D・ボーグ著山田幸正訳/平凡社イスラム事典

スペインアンダルス南部の分派:1012-1090
10世紀末に、スペインに傭兵として渡ったベルベル族の中に、チュニジアのズィーリー朝のサンハージャ族系のタルカタ族がいた。その指導者ザーウィー・イブン・ズィーリーは、1010年のコルドバ市民とベルベル族の紛争を契機に、グラナダ地域にある肥沃なエルビーラを拠点とし、都市国家を創建した。1016年、イドリース朝の子孫アリー・イブン・ハンムード(ハンムード家)を支持しコルドバを占領しカリフ即位を助けた。創始者ザーウィーは、1019年、本家のチュニジアのズィーリー朝と和解し故郷に戻るが、その勢力は甥のハップースに引き継がれた(ハップースはアルハンブラの丘の向かい側のアルバイシンの丘の中腹にアル・カサバ(砦)を建て、その廻りを城壁で囲んだ(アル・カサバ地区))。この時からグラナダが政治の中心地となる(それ以前はエルビーラ)。ハップースの後は長子バーディース(アル・ムザッファル/ラカブ)が継ぐ(在位1038-73)。バーディースを継いだその子アブドゥラー(アル・ムザッファル/ラカブ/在位1073-90)の治世にアルフォンソ6世の侵略があり、3万ディナールを貢納する。アブドゥラーはアルフォンソ6世の侵略を排除する為に、ムラービト朝のユースフ・イブン・ターシュフィーンに救援を求めるが、結果的に1090年ユースフに退位を迫られ、モロッコの首都マラケシュの近くのアグマートに多額の援助を与えられ隠居することになった(彼の回想録に「ティブヤーン」がある)。

参考文献:アラブとしてのスペイン


関連サイト:
http://en.wikipedia.org/wiki/Zirid
http://www.bartleby.com/67/321.html
http://www.nationsencyclopedia.com/Africa/Tunisia-HISTORY.html
http://www.legadoandalusi.com/legado/contenido/preitinerarios/it7/eng/circuitos7.htm#Granada

05/10/23//05/11/13//05/11/23//05/11/27//追記修正
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