クリュニー修道院とイスラム文化 part2



ちょっと似すぎシリーズを更新したので、それに関連して、やはり5年前にアップしたクリュニー修道院とイスラム文化part1の続編に取り掛かりたいと思う。ネタは以前よりあったのだければ、ゴシックの翻訳を先にということで今に至ってしまった(汗)。

さて、イスラムスペインの文化の他のヨーロッパ地域への伝播なのだけども、「ちょっと似すぎpart4」で疑問として指摘したように、どうやらクリュニー修道院が大きく関与している。ここでは、参考文献で挙げている「レコンキスタ」D.W.ローマックス(林邦夫訳)でも指摘されている要因をベースにして語りたい。

第1の要因は、サンティアーゴ巡礼の影響。
第2の要因は、スペインの諸公とフランス或いは英国の諸公との婚姻関係。
そして第3の要因が、クリュニー修道会
との関係である。


クリュニー修道会についは、クリュニー修道院とイスラム文化part1で説明したが、スペインでは特にベネディクト会型の修道制が953年頃にカタルーニャに到来し、1025年頃以後にアラゴン、ナバラ、レオン帝国に広がっている。これによりフランスの修道士がスペインに定住し、クリュニーに服属するスペインの全ての修道院をクリュニー修道院長自身が2、3年毎に視察するようになったというから、スペイン地域が非常に重視されていたことが分かる。Wikipedia によれば、その理由の一つとして、レオン・カスティリャ王国との密接な関係が挙げられる、フェルナンド1世(在位1037-1065)はクリュニーに毎年1000枚のアウレウス(aurei)金貨(古代ローマの金貨)を奉納してしており、それはクリュニー修道会の重要な財源となっていたが、さらに彼の息子アルフォンソ6世(在位1072-1109)の時代には、それは倍額の2000枚の金貨になったという。この資金は当時のヨーロッパで最大の宗教建築であるクリュニー第三修道院の建設にあてがわれた。そうして、彼の名前はスコットランドからハンガリーまでのクリュニー修道会の全ての修道院のミサで読み上げられたという。スペインキリスト教国はクリュニー修道会の財源を支える、大パトロンであった訳だ。しかしながら、ここで重要な点は、その毎年2000枚の金貨がイスラム金貨であったという点である。

このイスラム金貨は、アルファンソ6世が、イスラム教徒からの年貢として徴収したものであった。アルフォンソ6世はレコンキスタの先鋒として見られることもあるが、実はイスラム文化の擁護者でもある。5年前に「中世スペインにおけるコスモポリタンな時期」で語ったのだが、アルフォンソ6世は、父王からレオン王国を継承したが、兄のカスティリャ王サンチョ2世(在位1065-1072)に追われ、イスラム王国だったトレドに亡命し、兄の死後レオン・カスティリャ両国の王位についたという人物である。このことは、当時のスペインキリスト教国とイスラム教国の関係を物語っている。そうしたイスラム国での優雅で進んだ生活を経験した為か、一方で彼は、イスラムの進んだ文明を擁護し、かつてムスリムが行ったような、宗教の自由を認めていた為、彼の治世下で、カトリックとユダヤとイスラムの共存が可能となった。イスラムの文化の豊かさを知っていた彼の趣味がイスラム風であったとしても不思議ではなく、彼が最大のクリュニー修道会の財政的パトロンであったことから、どこかでその趣味が修道院の意匠に反映されていたのかもしれない。

ローマックスは、更にその他の南フラスの修道院の例も指摘している、例えば1010年のウルヘール伯アルメンゴールがコルドバに遠征中に略奪した剣と金の剣帯のノートルダム・デュ・ピュイへの献納の例、また11世末には、サント・フォワ・ド・コンクがペドロ一世からバルバストロの壮麗なモスクを献納された例、などをあげている。こういった例が、クリュニー修道院本山だけでなく、サン・ポン・ド・トミエール、サン・ジール、サン・ヴァントサン・ド・カストル、ノートルダム・デュ・ピュイ、ロカマドゥール、サン・ビクトール、ド・マルセイユといった修道院にもなされた様である。これらの修道院がスペインから得た知識をフランスにそしてフランスから広めていったと思われる。

ここには、優れたイスラム美術が、手本としてではなく、宗教色の抜けた、略奪してきた戦利品、宝物或いは財産として認識された素地がある。そういった面で、イスラム教の建物を飾る建築装飾なども、宗教色とは関係なしに美しい美術の品の一つとして見做されたのかもしれない。アラビア語で書かれたギリシャ哲学やアラビア天文学、アラビア医学等がラテン語に翻訳され、ヨーロッパに広がった12世紀ルネッサンスを見ても、当時の人々がそれを異教のイスラムが出所であるという意識が薄かった或いは全くなかった様に、建築(特に装飾)もまた、スペイン以外のヨーロッパに伝わる際、異教という意識より、異国の珍しい美術品として受け取られ、応用発展させられていったのではないだろうか?

次回に続く

05/06/01
 
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