クリュニー修道院とイスラム文化 part4
ナバーラ王国とウマイヤ朝、サンチョ大王とクリュニー修道会、そして連続交差アーチ


ナバーラ王国とウマイヤ朝

バスク人の国家ナバーラとウマイヤ朝の関係が気になっている。イスラームに改宗した旧西ゴート王国の貴族カスィー家とナバーラ王国の婚姻関係は良く知られているが、ウマイヤ朝との関係はさらに深い。ナバーラ王国とウマイヤ朝との婚姻関係は、パンプローナ王朝の建国時より始まる。コルドバのウマイヤ朝は、アブド・アッ・ラフマーンの治世にその最盛期を迎えるが、アブド・アッラフマーン3世の祖母は、バスクの王の娘であると伝えられている。そこから、年齢的から逆算すると、その祖母は、初代国王イニゴ・アリスタ(818-852)の娘に該る。また王子ガルシア・イニゲスは、ウマイヤ朝の人質としてコルドバに送られ、そこで結婚し、その娘ムズナ?がアブド・アッラフマーン3世の母であったとも伝えられている。この逸話が事実であれば、ナバラ貴族とウマイヤ朝の貴族は血縁上では親戚ということなる。ガルシア・イニゲスの子である王フォルトゥン・ガルセスも捕虜になってコルドバで20年も暮らしていたらしい。人質とか捕虜といっても、牢に入れられていた訳ではない。イメージとしては、かつてのローマ帝国の皇帝が同盟国の王子に行っていたように、カリフの保護下に置かれアラブの貴族並の生活が保証されていたと思われる。そうであれば、コルドバでの生活レベルはパンプローナにいるより遥かに優雅であったことだろう。

さらに、ヒメネス朝に入ってガルシア・サンチェス一世の娘(スブフ?)は、アブド・アッラフマーン3世の息子である当時王子であったハカム2世の元に嫁いでいる。その娘とハカム2世の間に生まれた息子がカリフとなったハカム2世を次いでカリフとなったヒシャーム2世である。ヒシャーム2世は961年に弱冠12歳で即位した為その実権は、ナバーラ王国の王女でありナバーラ王サンチョ2世の女兄弟であるバスク人の妃スブフにあった。スブフは夫であるハカム二世の側近であったアル・マンスールの力を借り息子ヒシャーム二世をカリフに就けたが、アル・マンスールも野心家で一介の官僚からスブフを利用し、実質的にカリフを傀儡化しウマイヤ朝の実権を握った。そのアル・マンスールもまた、ナバーラ王国の王女を妃に迎えている。その妃はスブフの姪であり、ナバーラ王ガルシア二世の女兄弟であり、後にサンチョ大王の叔母となる。その妃はマンスールが擁立したカリフヒシャーム二世と従兄弟の関係に該る。そうしてアル・マンスールとナバーラの王女の間に誕生したのが、小サンチョ(シャンジュール)として有名なアブド・アッラフマーンであった。彼は父マンスールの跡を継ぎ宰相としてウマイヤ朝の実権を握った(結果的には民衆の支持を得られずウマイヤ朝瓦解の引き金を引くことになるが、、、、)。つまり、サンチョ大王とシャンジュールは同じバスクの血を引く従兄弟の関係にあったわけだ。ナバーラ王国とウマイヤ朝の婚姻的相関図 (試案)

この様にナバーラ王国は、イニゴ・アリスタ朝の建国時からウマイヤ朝に人質をとられ、属国化されるという憂き目を見るが、一方で王女をウマイヤ朝の政権の中枢に嫁がせたことにより、イスラーム国とも友好関係を築くことになり、結果的にバスクの血統は、11世紀初めに、ウマイヤ朝のシャンジュールにより南部スペインイスラーム国をそしてその後サンチョ大王により北部スペインキリスト教国を支配することになった。北部スペインの中でも、ローマ人の血をひくわけでも西ゴードの末裔でもない特殊な少数民族であるバスク族が周囲の他民族の圧力に潰されることなく、それどころか全スペインを支配する状況に至ったことは驚嘆に値する。

強大な軍事力を有していたわけでもなく、資金力があったわけでもないナバーラ王国の初期発展期は、後ウマイヤ朝のアブド・アッラーフ?〜シャンジュールのスペイン・イスラーム国家の未曽有の発展期に重なる。ナバーラ王国はウマイヤ朝の半属国となる代わりにウマイヤ朝の強大は軍事力と資金力の後ろ楯を手に入れたともいえるのではないだろうか?穿った見方かもしれないが、当時の周辺キリスト教王国がナバーラ王国に攻め込めなかった理由はここにあるのかもしれない。さらに西欧で恐怖の宰相マンスールとしてし知られるウマイヤ朝のアル・マンスールのキリスト教国への度重なる遠征は、ナバーラ王国が自国の安全保障の為、周辺国の弱体化を狙って情報を流したものかもしれない。ナバーラ王国発展は、北部キリスト教国と南部イスラーム教国の間に立って婚姻関係による高度な情報戦略をもって成し遂げられたものではないだろうか?ある意味でナバーラ王国はウマイヤ朝の特務情報機関であったのかもしれない。ナバーラ王国とウマイヤ朝の関係は北部キリスト教国にとっても重要なものであったことは、レオン王国サンチョ1世の事例(下記)にも見られる。

*レオンの王サンチョ1世と後ウマイヤ朝のカリフ・ハカム2世の妃スブフは従兄弟の関係に該るが、その共通の祖母である、ナバーラ王国のガルシア王の母トダは、レオン国王サンチョ1世と共に彼の肥満の治療の為に958年にコルドバに出向き、さらにアブド・アッラフマーン3世との軍事同盟の仲立ちをしている。サンチョ一世は、そのお蔭で、肥満の治療を済ませ、アブド・アッ・ラフマーン三世の援軍によりレオンの国王に返り咲いている(その後サンチョは条約を一方的に解消した為窮地に追い込まれたが、、、)。

ナバーラ王国も自身も999年にアル・マンスールの侵攻を受けているが、これには、レオンのサンチョ1世の例の様な一方的な同盟破棄の様な、なんらかの事情があったと思われる。実際に992年に、攻撃を受けた本人即ち当時の国王ガルシア?の父、国王サンチョ二世は、コルドバのアル・マンスールの宮殿ザーヒラ宮に出向き、マンスールに忠誠を誓っているからである。(前述の様にサンチョ二世は、ハカム二世とは義理の兄弟で、マンスールの義理の父で、シャンジュールの祖父である。)

サンチョ大王

こうした渦中にシャンジュールの従兄弟であるサンチョ大王(サンチョ・ガルセス?/在位
1004-1035)は王位に就いた。当時既にナバーラ王国は後ウマイヤ朝との婚姻関係を築く一方で、レオン王国との婚姻関係も進めていた。先のサンチョ1世の経緯も、ナバーラのヒメネス朝のサンチョ?とイニゴ・アリスタ朝のトダの婚姻によって生まれた娘を次々とレオン王国をはじめとする周辺諸国の有力貴族に嫁がせた結果である。サンチョ大王もまたその政権の側近たちも、この婚姻による情報戦による政治的勝利を軽視するはずはない。サンチョ大王もまたこの政略を踏襲し、ナバーラ王国、アラゴン王国、レオン・カスティーリャ王国を統合していったが、これは最終的に戦果によるものではない。

当然、サンチョ大王は南部のウマイヤ朝の状況も察知していたに違いない。即ち民衆の蜂起によるシャンジュール死、そしてそれによるウマイヤ朝の小国への分裂。*
後ウマイヤ朝のマンスール 一見、これはキリスト教連合軍にとっての侵攻の好機として見えるかもしれない。しかし、サンチョ大王は、さらにより良く知っていたのではないだろうか?南部イスラーム国は、政治的に混乱状態にあったが、決して軍治力や資金力が枯渇していたわけではなく依然として脅威であったこと、キリスト教連合軍といった形をとれば、南部のムスリムを刺激し分散した勢力がまた一つに纏まりかねないこと、そして、その軍事力の前には、まだまだ、北部キリスト教国は対抗できる勢力ではなかったこと、さらにその戦争による国力の疲弊によりフランスから足元をすくわれかねない状況にあったこと、、、、。サンチョ大王がウマイヤ朝の混乱期に南部に侵攻しなかったのは謎ともされているが、理由はこの辺りにあるのではないだろうか?サンチョ大王はクリュニー修道会やサンチアゴ巡礼を保護したことでは有名であるが、一方で南部のイスラーム国の軍事力・文明の高さについての見識も高かった本当の意味での賢帝であったのだろう。後に彼の意志を継いだであろう?息子のフェルナンド?(在位1035-1065)や孫のアルフォンソ?(在位1072-1109)の政策はそれを表しているように思われる。彼らは後に十字軍ともいわれるレコンキスタにより、分裂小国化したイスラーム国に侵攻するが、彼らはムスリムを虐殺した訳でなく、キリスト教高位者に疎んじられながらも、むしろ国益の為に彼らを保護している(後にそのムスリム達はムデーハル美術といわれれる様式で名を馳せた)。アルフォンソ?が「キリスト教徒の国並びにイスラム教徒の国の王」を名乗ったのは良く知られる事実である。*中世スペインにおけるコスモポリタンな時期

この極めて現実的な彼らの政治的な対処の仕方は、約一世紀後のシシリー王国のフリードリヒ?を思わせる
(在位シチリア王(1198-1250)/ドイツ王(1212-1250)/神聖ローマ皇帝(1220-1250)。*フリードリヒ2世の十字軍 彼もまた現実的な王であった。彼らに共通するのは、キリスト教徒に対してもイスラム教徒に対して、極めて現実的な対処の仕方をしたということである。彼らにとって重要なのは国益であって、当時他の西欧の王権までを左右した教会や修道院の利益ではなかった。双方の文化に通じるからこそ妄信に惑わされることがなかったと言えるだろう。彼らにはある種のニヒリズムさえ感じる。彼らは十字軍の嘘も真実も見抜いていたに違いない。

クリュニー修道会そして連続交差アーチ

サンチョ大王の時代から1000年経った今では、ナバーラ地方にイスラーム文化の形跡は殆ど残っていないようだ。しかしながら、当時ビザンティン帝国のコンスタンティノーブルとアッバース朝のバグダードに比肩する文化・文明を誇ったコルドバと関係の深かったパンプローナ王朝である。当時の西欧とは格段に洗練された文明の影響を受けなかったはずはない。後ウマイヤ朝のアブド・アッラーフ?〜シャンジュールの時代、政略的情報はその華やかな文化と共に到来したに違いない。またそして人脈や人材も、、、、、少なからずもモサラベも行き来したことだろう。そうして文化は建築にも反映されていたとは考えられないだろうか?現在もアラゴン地方にはムデーハル様式の建築物が残るが、サンチョ大王の時代、それに似通ったモサラベ建築が、サンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼路に点在していたのではないだろうか?

クリュニー修道会がスペインに進出してきた時期はこのサンチョ大王の時代(在位1004-1035)である。サンチョ大王はこのクリュニー改革運動受け入れ、サンチアゴ巡礼(サンチアゴ・デ・コンポステラ)を保護したため、それまで希薄だったピレネー以北との文化交流が密になっていった。ここを訪れたクリュニー修道士たちは、よもや自分達キリスト教徒を保護するキリスト教国王の国にイスラーム様式影響を受けた建築があるとは思いもよらなかったのではないだろうか?むしろ神の御利益のあるサンチアゴ・デ・コンポステラへの街道にある高貴な建築、尚且つスペインに入って初めて目にする豪華な建築に驚き、感化されたのではないだろうか?本当に勘違いしたのだと思う、、、、、、。そうしてクリュニー修道会が最盛期を迎えるのは、この時代以降のオディロン(在位994-1049)、ユーグ(在位1049-1109)の時代である。この時代にクリュニー修道院芸術も盛期を迎える、修道院会に属する教会は、1200を越え、1088年にクリュニー第三聖堂の建設がはじまった。この潮流の中でクリュニーの建築様式は形成された。この時期以降に、当時勢力を延ばしてきたノルマン系貴族により、フランス、イギリス、イタリアで新たに建築されたクリュニー系修道院の建築に多用された連続交差アーチは、これを例証しているかのようである(クリュニー修道会のスペイン進出以前に連続交差アーチがスペイン以外のヨーロッパの建築物で使用された例は存在しない)。*
クリュニー修道院とイスラム文化 part3



2006/02/21
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