世界様式「連続交差アーチ」の誕生-001
最終更新日 2011/01/30

10世紀に、ある装飾のモチーフがスペインのコルドバで誕生する。それは英主カリフ、アルハカム2世により、全世界の叡智を集結した事業に登場する「連続交差アーチ」である。このモチーフは、100年後の後ウマイヤ王朝の滅亡後、イギリス、フランス、イタリアへ、当時一大勢力を誇ったクリュニュー修道会によって持ち込まれノルマン建築様式として発達していくと共に、北アフリカへは、ムスリムの工匠によっても持ち込まれ、まさに世界様式となっていった。
コルドバのモスクの履歴書-モスクの拡張と改造の変遷
アブド・アッラフマーン2世による増築時のエントランスのデザインは?
832年から848年にかけて増築されたモスクの西側(正確には南西)の壁面には上部のアーチ装飾のない入口が残されているのみである(右写真左端)。後の時代に装飾が剝されたものではないかと考えられるが、最初のアブド・アッラフマーン1世時代のエントランスが残されていることを考えると、961-962年のハカム2世の時代の拡張時ではなく、おそらく、16世紀のキリスト教聖堂の改築時に破壊されたものではないかと想定される。後の時代まで最初期のエントランスのデザインが踏襲されていることから、このアブド・アッラフマーン2世のエントランスの上部にも同じような馬蹄形のアーチがあったことだろう。

 コルドバのモスク(メスキータ)は、何度かの拡張と改造の後、現在の姿になっている。786年と787年に、アブド・アッラフマーンにより、元からあったキリスト教会(聖ビセンテ教会)が買収され、そこに最初のモスクが建築された。最初期の原型となったエントランスはこのときに建築された。あるいはこのエントランスの形状は、その時の教会のエントランスの名残かもしれない。メスキータの柱の構造が天井の高さを確保する為に特徴的な2段構造になったのは有名な話で、元来あった材料を流用した可能性は否定できないのではないだろうか?また最初の教会自体がアブド・アッラフマーン以前に、その半分がモスクとして使用されていたことからも可能性があるのではないか?
最初の拡張は、50年後の832年から848年にかけて、アブド・アッラフマーン2世によって最初のモスクの南側(クアダルキビル川側)に建築された。現在この部分の殆どは16世紀に建造されたキリスト教聖堂が割り込んでいる為当時の痕跡を確認するのが難しい状態となっている。エントランスについても壁面の大部分の装飾が剝ぎとられている為原型を確認できないが、おそらく最初のモスクのデザインを踏襲してものと思われる。
 そして、2度目の拡張は951年にアブド・アッラフマーン3世によって行われた。この時は、礼拝堂ではなく、中庭が北側に拡張され、ミナレットが新たに作り替えられた(現在のミナレットの原型)。この時期に礼拝堂自体が拡張されなかったのは、財力がなかった為ではなく、同時期にアブド・アッラフマーン3世によって、コルドバの北西約6kmに新首都マディナ・アッザフラ(メディナ・アサーラ:スペイン語)の建設が進められていた為であろう。この都は936年から建設が始められ、アブド・アッラフマーンの死後にも継続され完成に35年に月日を費やしている。その建設には後ウマイヤ朝史上空前絶後の繁栄を見た時期の王朝の国家予算の三分の一が費やされ、1万人の労働者が雇用されていたという。工匠たちや資材も、北アフリカ、シリア、ビザンティンなど各地から集められた。
 つづく10年後に961年と962年に行われた2度目の礼拝堂本体の拡張がアブド・アッラフマーン3世の息子である、アル・ハカム2世によるものであった。この時の拡張時に最初と二番目のエントランスに並んで壁面に穿たれたのが、このレポートの主題となっている連続交差アーチのあるエントランスである。この時、世界で初めてこのモチーフが誕生したと考えられる。同じアル・ハカム2世が事業責任者であった先行して行われたマディナ・アッザフラではこのモチーフは現在のところ確認されていない。このエントランスはメインのエントランスと両側のサブエントランスの3つ一組からなっているが、残念なことに中央のメインエントランスは入口扉の周囲の装飾が剥ぎ落され、おそらく16世紀のキリスト教聖堂への改変時に、ゴシック様式の装飾と取り換えられている。わずかにその装飾の上にアーチの痕跡が認められるのみである。おそらくはこの部分にはカリフの偉業を高らかに称えるクーフィ体の碑文が刻まれていたのではないだろうか?それでも両側のエントランスの装飾はかろうじて保存されている。両方ともに入口の上に連続交差アーチがしっかりと残っており、幸運としかいいようがない。モスクのなかでここにしか残っていないこの極めて巧妙なモチーフが残っていなければ、ノルマン建築様式や北アフリカのイスラム建築様式アーチの起源は闇に葬られていたことだろう。
 最後、3番目のモスクの礼拝堂の拡張は、20年後の987年にアル・マンスールによって東側(正確には北東)に建築された。ここの東側のエントランスは8連であったらしいが、現在は7連が残されている。いくつかは保存状態が良いので当時の様子を詳細に確認できる。ここの入口上のアーチの装飾は馬蹄形アーチ多弁アーチの2種類のアーチがスパンごとに交互に設置されている。しかしながら、ここではアル・ハカム2世の次期に完成された連続交差アーチのモチーフは採用されていない。
アブド・アッラフマーン1世が建国した後ウマイヤ王朝は1031年に滅ぶことになる。その後コルドバは、コルドバ市民共和国、アッバード朝、アル・ムラービトゥーン朝、アル・ムワッヒドゥーン朝、フード朝等のイスラム王朝を経て、1236年にファルナンド3世らによって陥落した。モスクはそれ以後キリスト教会となった(現Catedral de Santa María(カテドラール・デ・サンタ・マリア、聖マリア大聖堂)。その後もスペインにはナスル朝が存続することになるが、1492年、アラゴン、バスセロナ王してシシリー王、そしてレオン、カスティーリャ共同統治王である、フェルナンド2世(フェルナンド5世/フェルディナンド2世)の手中におちることになる。スペインは完全にキリスト教徒の王国となったのである。
 そして、フェルナンド2世の孫、神聖ローマ帝国皇帝にして、スペイン国王、シシリー国王、ナポリ国王となったカール5世(カルロス1世)の治世(1516-1556)にコルドバのモスクの大改造が行われる。改築後 「もし、前もってメスキータのことを知っていたなら、決して許可を与えなかっただろう。どこにでもある建物の為に、世界にひとつしかない建物を壊してしまった」と嘆いた史実は有名。同時期はアルハンブラ宮殿も改造されている。
 あまり知られていないが、カール5世は先祖に約550年前のナバラ王国のバスク人であるトダ・アスナレス(c.885-aft.970)を持つ。彼女はこのレポートのテーマである連続交差アーチを創作させた前述のアル・ハカム2世の妻スブフの祖母であり、ハカムの息子でありカリフとなったヒシャーム2世の曽祖母であった。偉大な遺産を創造した者と結果的にそれを破壊させたものは、遠い親戚でもあった。cf.スペインの諸王朝の系図

エントランスの建設時期とそのアーチ状の装飾-連続交差アーチ(ポインテッドアーチ)の誕生
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