クリュニー修道院とイスラム文化 part5
イスラーム治下スペインのキリスト教と最盛期のクリュニー修道会


しばしば勘違いされる様に、スペインはアラブの占領により一気にイスラーム教の国になった訳ではない。最初の世紀の間は、統治者が元アリウス派キリスト教徒の西ゴート族からアラブ人へと頭がすげかえられたにすぎなかった。トレド、セビーリャ、メリダの首都大司教座は少なくともムワッヒド族の時代までは存続していたし、キリスト教公会議も開催されていた(住民のキリスト教徒からイスラームへの改宗率はRichard Bulliet が示す曲線に近かったと考えられている)。そして司教の任命権は、ローマカトリック教皇ではなく、イスラームの統治者(総督、アミール、カリフ)にあった。

クリュニー修道院のスペインへの進出はナバラ国王サンチョ三世(1004-1035)の時代に始まった。その時代イスラーム圏スペインはカリフ国として崩壊し、小国へと分裂しており、小国となり弱体化したタイファ王国は北部キリスト教国の貢納国となっていた。その時期、司教の任命権は依然としてタイファ王国の王にあったが、貢納するキリスト教国からの圧力を受けたものになっていた。クリュニー修道院はそのイスラーム教、タイファ王国へも続いて進出している。

アラゴンのサン・フアン・デ・ラ・ペーニャ修道院院長、クリュニー修道士パテルナは、サラゴサ王国(フード朝)のアル・ムスタイーン一世によりサラゴサの司教に任命されたが、これはナバラ国王サンチョ三世の息子アラゴン国王ラミロ一世の圧力によるものであった。クリュニー修道士パテルナは1040年から1060年までその地位にあった。そして、1046年に父アル・ムスタイーン一世よりサラゴサ国を継承したアフマド・イブン・スレイマン・アル・ムクタディル(1046〜1081)が有名なサラゴサのアルハフェリアの宮殿の建設を始めたのもその時期であった(アルハフェリア宮殿は半世紀後の1118年アラゴンのアルフォンソ一世(ラミロ一世の孫)の侵略を受けベネディクト派の修道院に転用される)。

また1085年にカスティリャ王アルフォンソ6世は、トレドを市民に、トレドにとどまるムスリムの生命、財産、信仰の保証、・トレドを離れるものの財産の保証、抗戦中にトレドを離れたムスリムの財産の回復、ムスリムはズンヌーン朝時代以上の税金を課せられないこと、金曜日の大モスクは永久にムスリムの手に残ることを条件に、無血開城させた(当時のトレド王アル・カーディルはトレドを放棄する代わりに 、アルフォンソ6世の兵力を借り、バレンシアを攻めそこの王となる)が、アルフォンソ6世が任命した新しいトレド大司教クリューニー修道士ベルナルドは画策しモスクを奪い教会に転用している。アルフォンソ6世が、ズル・ミッタライン「キリスト教徒とムスリムの王」と自らを称してスペイン全土の制圧を目指し、ムスリムを追放したり、改宗させたりする意志のないことを明らかにした史実は有名である。

さらに1088年に、カスティーリャ国王アルフォンソ6世(サンチョ三世の孫)は、クリュニー修道士ジェロームをバレンシアの司教に任命させている(当時のバレンシアはズンヌーン朝のアル・カーディルの治下にあったが、彼はアルフォンソ6世に莫大な貢納を強いられた後、エル・シッドの侵略により、実質的権威を失っていた)。バレンシアの司教となったクリュニー修道士ジェロームは、エル・シッドの治下(
キリスト教徒とムスリムが平等であった国家
)でもその職を勤め、1099年のエル・シッド葬儀も行なっている。

見方を変えれば、最も早く、イスラーム・スペインの優れた文明・文化の洗礼を受けたキリスト教共同体は、他でもないクリュニー修道士会であった訳である。そして、クリュニー修道士会はキリスト教徒とムスリムが混在する当時のヨーロッパでは最も優れたイスラーム文化の中で布教活動で開始したのであった。イスラーム国家で布教した彼らがその文化をクリュニー修道士会本山に伝えたことを想定することは難しくはない。時のクリュニー修道士会本山の修道院院長は、かのユーグ(1049-1109)であり、彼の時代に修道院芸術は盛期を迎え、修道院会は約1200に達し、クリュニー修道士ジェロームがバレンシアの司教に就任した1088年にクリュニー第三聖堂の建設がはじまったのである。

イスラーム・スペインからフランスへの建築文化の伝播を無視できない歴史的出来事とはいえないだろうか?

参考文献:イスラーム治下のスペイン/アラブとしてのスペイン

2006/08/23
 
inserted by FC2 system