スペインのウマイヤ朝の崩壊とロマネスク文化の勃興
10世紀の中頃に世界最高の文明・文化を誇ったスペインの後ウマイヤ朝は、1009年の反アーミル家革命を発端とし、崩壊していく。カリフの権威は失墜し、国家は有力都市を中心とした地域に分裂し、統制力を失っていった。

一方で地中海世界や中東から集められた当時世界最高の学問、芸術、技術を担った人材はカリフという巨大なパトロンを失い、新たなパトロンを求め各地に散っていった。当時イスラーム圏にあったスペインのタイファの国家、北アフリカ、イタリア南部、シシリー、そしてスペイン北部キリスト教国カスティーリャ、レオン、アラゴン、ナバラ、バルセロナ、さらに現在の南フランス、イングランドにも、、、。

イスラーム国家というと、なぜか現在TVに頻繁に登場するイランやイラクの中東の人々の顔つき、皮膚や髪の色を思い浮かべてしまうが、当時のスペインの大多数のイスラーム教徒(ムスリム)はそうではなかった。良く知られている様に、この類稀なスペイン帝国を造り上げたアブド・アッラフマーン三世にして、目は濃紺で髪は赤味がかった金髪であった。国民の殆どはローマ帝国以来の住民で、アラブやベルベルの血統は混在していたであろうが、北スペインや南フランスの住民とたいして風貌は変わらなかったことだろう。

10世紀にアブド・アッラフマーン三世ハカム二世、そしてアル・マンスールの元での国家の財源の大半を飲み込んだと謂われる建築事業(マディナ・アル・ザフラ、マディーナ・アッ・ザーヒラ、コルドバのモスクの大拡張など)で得られた世界最高水準の建築・彫刻技術は、地場の工匠たちの技術レベルをも飛躍的にあげたことだろう。カリフという大パトロンを失った彼らは、そこで得た知識と才能をもって、新たなパトロンを求めて各地に散っていったのではなかったか?

実際、タイファの時代11世紀に、スペインの地方国家(トレドやサラゴサなど)では嘗てないほどの建築文化が開花する(ローマ帝国以来文化の中心地は南スペインアンダルシア地方であった)。現在サラゴサに残るアルハフェリアはその好例であるが、現在その痕跡は失われたいるものの、その周辺地域でもでも同レベルの建築文化が開花したことは想定すべきではないだろうか?(バレンシア等でも)。

   

そしてその建築文化は分裂によるイスラーム国家の軍事的弱体化による北スペインキリスト教国のイスラーム国家への侵攻に便乗したクリュニー修道院の建築・彫刻美術にも影響を与えたと考えられる。*クリュニー修道院とイスラム文化 part5(イスラーム治下スペインのキリスト教と最盛期のクリュニー修道会)参照。クリュニー修道院の財政的繁栄は、王や騎士たちからの多額の寄進を無視することはできない。*クリュニー修道院とイスラム文化 part2参照

イスラーム国家からキリスト教国への工匠の流出は、奇異に思われるかもしれない。しかしながら中世のドイツやフランス、イギリスが国民の殆どがキリスト教徒であったという状況とは違って、当時のスペインのイスラーム教国の国民が全てイスラーム教徒(ムスリム)であった訳ではない。地域によるであろうが、おそらくイスラーム教徒は8割程度で、残りはキリスト教徒とユダヤ教徒ではなかったかと謂われている。*イスラムスペイン下のキリスト教徒からイスラム教徒への改宗者の比率参照

特に、北部イスラーム小国家は、クリュニー修道院が進出してきた当時はカスティーリャやレオンの納貢国に転落しており、キリスト教国の圧力により、クリュニー修道院もキリスト教の布教が保護されていた為、キリスト教徒への改修者も多かったのではと考えられる。こういったキリスト教徒とイスラーム教徒(ムスリム)との文化的共有は、やはり11世紀におこる南イタリアとシシリーでのノルマン王朝を観ると理解しやすいのではないだろうか?国家の元首が信仰する宗教と国教がイスラーム教であるかキリスト教であるかの違いはあるが、そこでもキリスト教徒とイスラーム教徒が同じ文化を共有しており、ここでも文化レベルの高さはイスラーム側にあった。

そういった状況下で、文化や言語は違っていたであろうが、同じキリスト教徒であり、同じ容貌をしたスペインのキリスト教徒の工匠たちが、自らの才能と技術を武器にフランスにパトロンを求めて散っていったことは想定出来ないことではない。実際、11世紀のスペインのタイファ国家の建築文化の開花時期とフランスのロマネスク建築文化の勃興時期とは時期的な一致をみる。また当時のロマネスク建築に、不思議な形をした柱やアーチ、緻密な彫刻など、敢えて工匠の技術と才能を誇示するかの様なモティーフが突如として登場するのは、彼らがその才能をパトロンに売り込む為の手だてであったのかもしれない。

そういった意味で、イスラーム建築文化の影響と受けたキリスト教徒の建築をスペインではモサラベ様式、レコンキスタ後はムデハル様式というが、実は南フランスのロマネスク建築も同じ系列にあるといえるかもしれない。新たにキリスト教徒のクライアントをパトロンとした工匠たちにとって、いかに彼らが育ったイスラーム文化で育てられ得た知識と技術をキリスト教のものとして、再構築するかが最重要課題であり、そこで様々な実験が試みられた。それがロマネスク建築を多様で豊かにしたのではないだろうか?

当時の史料は少なく、フランスで読み書きが出来る知識人といえばキリスト教教会の聖職者しかいない時代で、キリスト教を擁護する側の文献しかない時代である。推測の域をでないが。少なくともクリエ−ターである自分が同じ状況下に置かれたならば、きっとそうするであろうと思う次第である。

11世紀の南フランスのロマネスク建築そしてノルマン様式建築にそのヒントが隠されている。


07/05/04
 
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