クリュニー修道会の繁栄と凋落、ゴシック建築創造の背景として  ●歴史年表(本文と合わせてご覧ください)

はじめに

 11世紀から12世紀に突如キリスト教世界に躍り出てその栄華を極めたクリュニー修道院は、その後瞬く間に影響力を失い没落していった。いったい何がそうさせたのであろうか?
 クリュニー修道院は、909‐910年にアキテーヌ公ギヨーム1世(893-918)によって彼の所領ブルゴーニュのクリュニー荘園内に建設された地方の一修道院でしかなかった。しかしながら、この修道院の制度的特色をなす分院体制に基づく中央集権的組織は特に11世紀初頭における幾つかの教皇特許状によって、司教権をも排除しうる教皇直属の修道会として強化され、12世紀中期に最盛期を迎え、東は聖地から西はスコットランドまでほとんど全ヨーロッパに約1500の分院を有したとされている。
 問題は、どのようにして、それを成しえたかである。
Aその統制組織制度が優れていたのか?
Bその宗教理念が優れていたのか?
C優れた聖人が次々と登場し信者を大量の信者を獲得していったのか?
 一般的な史書には世俗化し、ロマネスク芸術の範例となったクリュニー修道院の壮大豪華な芸術は、清貧の美を求める他方のシトー会やカルトゥジア会の禁欲的芸術理念と対立し、激しい批判を浴び衰退していったとある。
 それであれば、BとCを理由とするには無理がある。Bについては、そもそも同じベネディクト派はクリュニー修道会だけではない。
 Aについては、なるほど優れていたに違いない。しかし、いかに制度がすぐれていても組織を運営する力がなければそれはなし得ない。そして組織運営をする力とは今も昔も、人、モノ、金による。
それでもなければ偉大な神の奇跡なのだろう。

アキテーヌ公

 909‐910年にアキテーヌ公ギヨーム1世によって建設されたクリュニー修道院であるが、アキテーヌ公を兼ねていたオーヴェルニュ伯の家系は、その息子(William?)ギョーム2世(918-926)、アクフレAcfred(926-927)で断絶し、アキテーヌ公はポアティエ伯に引き継がれている。ポアティエ伯Ebles Manzerは、ギヨーム1世以前の890-893年にもアキテーヌ公であったが、Acfredの後927-935年に継承している。その後アキテーヌ公は、ポアティエ伯の家系であるギョーム3世、ギョーム4世、ギョーム5世、ギョーム6世、オド、ギョーム7世(1039-1058)、ギョーム8世(1058-1086)からギョーム9世、ギョーム10世と継承され、その娘がフランス王とイングランド王の妃、有名な女帝アリエノールであり、その息子が十字軍で名を馳せたイングランド王、リチャード1世であった。

■アキテーヌ公の系図

クリュニー修道院

 創設時の修道院長ベルノー(909-926)から、オド(926-944)、エイマル(944-964)、マイユル(964-994)と続くが、マイユルの頃にクリュニー第2聖堂が(963-981)建設されている(そのベネディクト式プランを特色する形式は修道院改革運動の進展と軌を一にして各地に影響を与えた)。これはアキテーヌ公ギョーム4世(963-995)の治世のことであり、ギョーム4世の姉アデライードは、968年に後のフランス王ユーグ・カペー(987-996)と婚姻している。それに次ぐ修道院長が、有名な第5代修道院長オディロン(994-1049)であり、その後任が第6代修道院長ユーグ(1049-1109)である。彼らの時期にクリュニー修道院は最盛期を迎える。オディロンの時期に騎士階層を中心とするクリュニー修道院への莫大な量の土地の寄進がはじまり、修道院分院約70カ所となり、さらにユーグの時代に修道院芸術の盛期を迎え、修道院分院は約1200カ所となり、1088年にはクリュニー第三聖堂(1088-1130)の建設がはじまる。この二人の修道院長の時代(994-1130)がクリュニー修道院の天頂であったことは間違いない。クリュニー修道院第3聖堂はバチカンの大聖堂を遥かに超える巨大な建造物であったので、その栄華は推して知るべしである。

歴代クリュニー修道院長

スペインのイスラム王国

 このクリュニー修道院の天頂の時代(994-1130)に南域のスペイン南部では政治的大動乱が起こっていた。後ウマイヤ朝の崩壊である。後ウマイヤ朝は第8代アミールして初代カリフであるアブド・アッラフマーン3世(912-961)とその第9代アミール息子ハカム2世(961-976)の時代に最盛期を迎える。しかしながら、後ウマイヤ朝はハカム2世の息子である第10代アミールであるヒシャーム2世の治世に起こった1009年のクーデター以後急速に内部崩壊し、相次ぐ傀儡のアミールの政権を経て1031年に滅亡する。後ウマイヤ朝は、内部分裂し地方の有力による小国が乱立する事態となった(タイファの時代)。この状態は、イスラムの主要都市であった、トレドとサラゴサの領土をスペイン北部のキリスト教国に蹂躙略奪されながら、1102年に北アフリカのムラービト朝によりスペイン南部が制圧されるまで続くことになる(※サラゴサ王国は1118年にアラゴン王国により最終的に滅亡)この時期(1009-1102)は、クリュニー修道院天頂の時代(994-1130)に重なる。

中世スペイン/タイファ時代の国家とその支配者たち

スペインのキリスト教王国

 スペイン南部のイスラム国が疲弊混乱して小国に分立していった時代(1009-1102)、スペインのキリスト教国は小国を個別撃破していく。いわゆるレコンキスタと言われる時期である。それまで、後ウマイヤ朝を宗主国して朝貢していたカスティーリャ王国、レオン王国、アラゴン王国、ナバラ王国は、互いに諍うイスラム小国であった、トレド王国(ズンヌーン朝)、サラゴサ王国(フード朝)、マーラガ王国(ハンムード朝)、コルドバ王国(アッバード朝)、セビーリャ王国(アッバード朝)、バダホス王国(アフタス朝)、グラナダ王国(ズィリー朝)などを攻め、逆に朝貢させる立場となった。
 トレド王国は1085年にレオン・カスティーリャ王国のアルフォンソ6世の元に、サラゴサ王国は1118年にナバラ・アラゴン王国のアルフォンソ1世の元に墜ちた。
 この時期にレオン・カスティーリャ王国のフェルナンド1世(在位1037-1065)はクリュニー修道院に毎年1000枚のアウレウス(aurei)金貨を奉納し、息子のアルフォンソ6世(在位1072-1109)の時代には、2倍の2000枚のディナール金貨を奉納している。また、ナバラ・アラゴン王国のアルフォンソ1世は、征服したサラゴサ王国の(現在は世界遺産となっている)アルハフェリア宮殿を修道院としてクリュニー修道院に寄贈している。
 この時代、スペインイスラム小国を端緒とする財物は、クリュニー修道院の組織運営の為の莫大な資金源となっていたはずである(聖堂建設資金や修道僧の生活の糧の購入費だけではなく、傘下に他の修道院を従え、法王擁立や教会人事の為の工作資金として)。

クリュニー修道院とイスラム文化 part2

アキテーヌ公とスペイン北部キリスト教国の関係

 そしてそうして弱体化したイスラム小国に目をつけたのは、スペイン北部のキリスト教国だけではなかった。
 クリュニー修道院を建設したアキテーヌ公を継承したギョーム7世(1039-1058)は、これらイスラム小国を略奪し繁栄したスペイン北部のキリスト教国の繁栄を見て、娘のアグネスAgnesを1054年にアラゴン王ラミロ1世(1035-1063)に嫁がせている。また、弟のギョーム8世も、娘アニュエスをレオン・カスティーリャ王アルフォンソ6世(1065-1109)に1069年に、腹違いの娘Beatriceを1108年に嫁がせている。さらに、別の娘ギョーム9世の妹アニュエスを1086年にアラゴン公ペトロ2世に嫁がせている。そしてギョーム9世の娘アニュエスも1135年にアラゴン王ラミロ2世に嫁いでいる。クリュニー修道院天頂の時代(994-1130)、アキテーヌ公と北部キリスト教国は婚姻により親戚となり親密な関係にあった。ギョーム7世からギョーム10世の治世の期間(1039-1137)である。(女帝アリエノールはギョーム10世の娘)

ローマ法王の陰謀か

 そうした状況にローマ法王も無関係ではなかった。1064年に当時の状況を物語る象徴的な出来事が起こった。法王アレクサンデル2世の教書による十字軍(第1次十字軍の先駆けとなる)である。教皇アレクサンデル?は、アキタニア(当時のアキテーヌ公はギョーム8世)、ノルマンディー(当時のノルマンディー公はウィリアム1世)、及びシャンパーニュの騎士の参加を得て十字軍の教書を発令、1064年、アラゴン王サンチョ・ラミレスとこの大編成部隊は、サラゴサ王国(フード朝)下にあったウエスカとバルバストロを襲撃し陥落させた。
 同時代のイスラム側の歴史家イブン・ハイヤーンの書、「マティーン」によれば、市民は、キリスト教の兵士により、財産を没収され、さらに隠し財産を吐き出す為に拷問にかけられ、手足を縛られたまま、目の前で妻や娘を犯されたという。女性や子供は奴隷化され、指揮官だけで1500人の処女と宝石、着物、カーペットなど500頭分の戦利品を得たという。
 そうして略奪した財物がスペイン北部キリスト教国だけでなくアキテーヌ公他諸侯からクリュニー修道院にさらに法王に奉納されたのは想像に難くない。そして、ノルマンディーもまた、これにより裕福になったに違いはない。
そして、1064年のこの出来事は、ローマ法王に、そして西欧の諸侯に膨大な富をもたらし、その財物の魅力は1096年の第1次十字軍の動機となったのかもしれない。(味を占めた法王の謀略)
 十字軍はファンタジーの様に決して神の意志によるものでない。大義にはなったかもしれないが、、権力と欲望こそが人を動かす。

歴代ローマ教皇(法王)の系譜

クリュニー修道院とイスラム文化 part9

ノルマンコンクエストの軍事資金

 また、1064年の十字軍の出来事は、1066年ノルマンコンクエストのわずか2年前の出来事である。軍事行動には膨大な資金が必要とされる。軍事行動には人件費や兵器費だけでなく、兵士にあてがう水・食料・燃料、医薬品等の費用、それに係る輸送費など勇気と勢いがあれば勝利できるものではない。この出来事はノルマンコンクエストと無関係であろうか?征服の意図はあっても、資金がなければ行動は起こせない。敗北が明らかであるから。ウィリアム1世に軍事行動を決断させたのは、1064年のこの出来事ではなかったろうか?

 ノルマンコンクエストの物語を描いたバイユーのタペストリーには、軍馬としてアラビア種が描かれているという。当時、これを調達できるのはスペイン以外にはない。略奪した財物を運んだ500頭分の馬はアラビア種だったのではないか?膨大な財物は遠征の為の軍事物資調達の資金と使われたのではなかったか?

ノルマン・コンクエストの不思議

ノルマンコンクエスト後のイングランドにおける教会堂建設とクリュニー修道院第3聖堂の建設

 ノルマン・コンクエストの1066年から1100年までの11世紀末の僅か30年の期間に大量の教会が建て替えられた。(カンタベリー司教座教会、リンカーン司教座教会、オールド・セイラム司教座教会、ロチェスター司教座教会、ウィンチェスター司教座教会、ロンドン司教座教会、チチェスター司教座教会、ダラム司教座教会、ノリッチ司教座教会、バリー/セント・アウグスチン教会、カンタベリー/セント・アウグスチン教会、セント・オルバンズ/修道院教会、バリー・セント・エドマンズ/修道院教会、イリー/修道院教会、グロスター/修道院教会、ティウクスベリー/修道院教会、ヨーク、セントマリー/修道院教会など)
 また、同じ時期にクリュニー第三聖堂(1080-1130)の建設が行われた。イングランドの建設事業も膨大であるが、クリュニー第三聖堂の建設も途轍もない事業である。それは、バチカンの聖堂の規模を遥かに上回る巨大な事業であったからである。
 R.H.C.デーヴィスはこれを、イングランドのこの事業について、イングランドにすでに盛んな建築産業が存在していた根拠としている。「明らかにこのような膨大な作業は、イングランド に、すでに盛んな建築産業が存在していなければ、達成されなかったであろう。」
 では、クリュニー第三聖堂はどうなのか?当時文明の先端地でもないアキテーヌに巨大な建設産業が存在していたというのだろうか?
 建設するべきものがないところに、何故に、産業だけが先行して存在し得るのか?それだけ大量の作業量をこなす技術者が、それまでなにによって彼らの糧をえてきたというのだろうか?百歩譲って数量的な人員がいたとしても、建築の様式は資金があったとしても、魔法のように一晩にして誕生するようなものではない。
 突如として新たな様式が登場する時には、なんらかの外的要因が働いたことを疑ってみるべきである。
 当時のヨーロッパ最大の文明地域があったことを思い返してほしい。それこそが、12世紀にヨーロッパに文化的・文明的革命を促すことになる震源地アンダルシア(スペイン)である。

クリュニー修道院とイスラム文化 part3

ヨーロッパ最大の建設事業先進地アンダルシア

 1009年の反アーミル家革命により実質的に後ウマイヤ朝政権は内部分裂により崩壊する。しかしながら、その政権の崩壊によりコルドバを中心し当時の西欧随一の繁栄を誇ったアンダルシアの文明文化は人材と共に北方に拡散してゆくことになる。1066年頃のスペインでは、分裂した小国にコルドバのイスラーム・スペイン文化がもたらされ、スペイン全土が洗練されたアンダルシア文明で覆われた時期であった。(例:サラゴサのアルハフェリア宮殿)

 度々勘違いされるが、これらの小国はイスラム国家ではあったが、その住民が全てイスラム教徒であった訳でもアラブ人であった訳でも無い。特に、建設を請け負った労働者たちは、社会的地位は下層のユダヤ教徒やキリスト教徒たちであったことだろう。またアラブ人やベルベル人は人口構成の上では少数派であったから、混血はあったとしても、殆どの住民の容貌は、南フランスの人々とたいして違わなかったはずである。(後ウマイヤ朝のカリフ、アブド・アッラフマーン三世でさえ、その容貌は濃紺の目と赤味がかった金髪で目鼻立ちがはっきりしていたということをごぞんじだろうか?)

 1066年に遡る約130年前の936年からアブド・アッラフマーン三世により建設されたマディナ・アッ・ザフラーでは1万人の労働者が雇用されていたという。また資材や人材は遠くエジプトやシリアからも輸入されていたという。次のカリフ、マディナ・アッ・ザフラー建設の総指揮にあたったアブド・アッラフマーン三世の息子ハカム2世の時代には続けてコルドバのモスクの拡張が行なわれ、さらに続けて実質的な権力をカリフから奪った宰相マンスール(-1002)は、自身の宮殿とコルドバのモスクの三度目の拡張工事という大事業を行なっている。おそらくは、この約60年の間、建設産業はヨーロッパの他のどの地域よりも成長し、人材も技術もその極みに達したことであろう。そしてその人材と技術は、1035年にカリフ国が崩壊し小国に分裂した時期に、今度は小国の城と宮殿を建設する為に、各地に拡散伝播し、さらに発達させられていったことは仮定するに困難ではない(合わせて130年の間に熟成した技術となった)。

 そうした建設産業の中で優れた技術を体得したイスラム政権下のキリスト教が自らの技術を頼りにフランスやイギリスに軍馬と共に渡り、、そしてまたフランス人と同じ容貌をしたイスパノ・ローマ系イスラム教徒もまた、レコンキスタという略奪戦争により奴隷として、或いは自発的に渡り、改宗してキリスト教徒なり、技術者として能力を発揮したのではないだろうか?
そうしてカネ(財)だけなく、ヒト(人材)やモノ(技術)は、北に移動したのではなかったか?

タイファ(スペインイスラム小国)の消滅とクリュニー修道院の凋落

 クリュニー修道院の全盛期(994-1130)、アキテーヌ公がスペイン北部キリスト教諸国と関係を深めた時期(1039-1137)、スペイン南部タイファ(小国)の時期(1009-1102)が、一致するのは単なる偶然ではない。前述の様に、これらには明らかな相関関係が認められる。
 それであるからまた凋落の時期も一致する。即ち、スペイン南部タイファ(小国)がスペイン北部キリスト教諸国の攻勢を受け弱体化した為、北アフリカのムラービト朝の侵攻に耐えられず併合消滅していくが、それに伴い略奪の狩場を失ったスペイン北部キリスト教諸国の繁栄には影がさし、結果アキテーヌ公の関係は希薄となっていく。当然、彼らからの莫大な寄進を失ったクリュニー修道院の資金は枯渇していき、傘下の修道院は離反していく。
 クリュニー修道院没落は、冒頭で述べたように「世俗化し、ロマネスク芸術の範例となったクリュニー修道院の壮大豪華な芸術は、清貧の美を求める他方のシトー会やカルトゥジア会の禁欲的芸術理念と対立し、激しい批判を浴び衰退していった」という現象が奇しくもこれを説明することになる。
(一般的にはこの状況を貴族からの土地寄進などによって修道院の影響力が強まったが、11世紀後半以降の急速な貨幣経済の浸透によって、クリュニー修道院をはじめとするベネディクト会修道院は共通して財政悪化したと説明されるが、一面的な見方に過ぎないと考える。貨幣を搾取する対象自体がなくなったのだ。)
 つまり、クリュニー修道院は、壮大豪華な芸術を資金難から維持することができなくなり、さらに巨大修道院本体自体もその規模故に維持費がかさみ、その結果として、傘下に他の修道院を従え、法王擁立や教会人事の為の工作資金が枯渇してしまった。その為、傘下の修道院は離反し、シトー会にみられるようにクリュニー修道院とは別の価値観である「清貧の美」を求めるしかなかったのであろう。しかしながら、それは本来のベネディクト派の理念に立ち戻ったとも言える。
 略奪されたイスラムの資金は、その巨額さから聖職者の欲望を刺激し、法王の人事まで操るクリュニー修道院という怪物を創造した訳である。さらに、それであるから資金の枯渇はローマ法王にも及ぶ、スペインから資金をせしめることができなくなったローマ法王は、今度は東に新たな狩場を求めていった。1096年に始まる十字軍がそれである。聖地奪還の大儀は、大いに人々を刺激したが、実のところ、やっていることは1064年の十字軍と変わるところはない。
 もっとも、遠征したエルサレムを統治していたイスラム国であるアイユーブ朝は後ウマイヤ朝ほどの栄華を誇った訳でもなく、スペインの様に小国で弱体化していた訳でもないので、思ったほどの利益は得られなかっただろう。東方のイスラム諸国は互いに反目していた為、エルサレムは奪還できたかもしれないが、そこまでであった。中東イスラム圏の一角であるシリアだけが十字軍の被害を被った。

ノルマン建築様式の誕生

 そうはいっても、クリュニー修道院は、この時期に歴上に特筆すべき大事業を行った。教理の布教ではない、それに伴って流通拡散させたヒト、モノ、カネである。
 後ウマイヤ朝の王室からの仕事を失った建設工人たちは、新たなパトロンを求めて、スペイン全土の小国に分散していった。そして小国がキリスト教国の侵略により疲弊した時、彼ら(ユダヤ人、キリスト教徒、ムスリム)たち建設工人たちとその家族たち(ここでムーア人と呼ぶ)は、次のパトロンを求めなければならなかった。
 そこに現れたのが、寄進によりイスラム資金を手に入れ莫大財産を築いたクリュニー修道院であった。バチカン大聖堂を凌ぐ巨大な建造物であるクリュニー第三聖堂、この建設にはどう程の費用と人員が費やされたのだろう。100年前にアキタニアから遠く離れたコルドバの建設されたマディナ・アッ・ザフラーでは1万人の労働者が雇用されていたという。クリュニー第三聖堂の建設現場もまた建設工人たちが生活する場と共に当時として大規模な都市の様相を呈していたのではないか。
 さらに同時期にノルマンコンクエスト後のイングランドでブームと言えるほどの大量の教会が建て替えられた。当然そこにも、大量の建設工人が必要とされたことだろう。クリュニー修道院は、フランスやイギリスを勢力範囲に収めようと工作していたことから、それらの地に有能な工人を派遣していたとしても不思議ではない。
 残念なことにクリュニー第三聖堂は、フランス革命時に破壊され、残存部分からはその様相の真実を知ることはできない。しかしながらインドランドのこの時期に建て替えられた教会や修道院には、その片鱗がのこされている(最も多くの建築物はその後大幅に改築され、原型は留めていないが)。
 その様式がノルマン建築様式と呼ばれるものだ。建築史の分類的にはロマネスク様式に分類されている。特筆すべきなのは、その外内装の意匠がそれまでの西欧キリスト教世界でみられなかった様式であったことだ。不思議なことに一般的な建築史の歴史の中ではノルマンディー固有の伝統様式として記述されているが、ノルマンコンクエスト以前にフランスのノルマンディー地方にはそのような様式は存在しない。
 教会堂のマスタープラン作成については、知見のある修道僧や神父が行ったに違いない。しかし、巨大な建設現場においては、それぞれの工種(石工、煉瓦工、左官工、大工、彫刻工、彫金工など)の現場監理者にそれが委ねられたことだろう。当時最も先進的な技術力を得ていたムーア人の集団以外に膨大な建設現場を仕切るものはいなかったのではないだろうか?
 ムーア人たちは、彼らのアイデンティティーの為に採用したのか?否、彼らにとって崇高、壮麗で、最高に価値ある意匠がそれであったのだ(ムーア建築様式)。であるから、ノルマン建築様式意匠はムーア建築様式意匠に極めて類似する。そしてその意匠を代表するのが、連続交差アーチである。
 なぜに、それが崇高・壮麗だと考えたのか。連続交差アーチはノルマン建築様式に突如として現れた訳ではない。それは100年以上遡る、スペインのコルドバに世界で初めて登場した。現在は世界遺産として有名なコルドバのメスキータ(現聖マリア大聖堂)にそれはある。コルドバのモスクは数度にわたって増築されたが、それがあるのは961/962年にスペインイスラム教国初代カリフであるアブド・アッラフマーン?の息子ハカム二世が指揮を執り建設された部分で、アルカサル宮殿からモスクに入るカリフ専用の門に現れた。崇高・壮麗だという所以である。

 このアルフィスの上の連続交差アーチは非常にすぐれたグラフィックデザインでイコンの集合体の様に感じさせる、馬蹄形のアーチは西ゴート族を象徴し、連続交差アーチ模様はモスクの多柱空間のコラムを繋ぐアーチの様子を3次元から2次元に変換している。それにより、また西ゴート族とアラブ族の交差融合をも表現しているともとれる。天才的なデザインである。
 これに瓜二つのスコットランドの聖カスパート教会の例を出すまでもなく、イングランドにはノルマンクエスト以降に建てられた建築物にこの連続交差アーチは度々登場する。クリュニー修道院との関係は、イングランドのノーフォークにあるキャスル・エーカー小修道院に見られるが現在廃墟となった教会堂のファサードには美しい連続交差アーチが見られる。同時期の遺構としてはクリュニー修道会のマッチ・ウェンロック小修道院(Much Wenlock Priory)のチャプターハウスが有名である。どちらかというとマイナーな遺構を示したが、現在世界遺産となっているカンタベリー大聖堂にも見られる。カンタベリー大聖堂は幾度も改築されているが、ノルマンクエスト以降の最初期の改築部分には明確に連続交差アーチがみられるし、イングランド国教会主教座ピーターバラ大聖堂の様な有名なファサードにもそれがみられる。

※関連

■連続交差アーチの起原−イメージの起源

■12世紀のスコットランドの村にモスク?

■クリュニー修道院とムーア建築様式

■クリュニー修道院とイスラム文化 part7

■ノルマン様式の連続交差アーチ

■カンタベリー大聖堂の謎

ノルマン建築様式からゴシック建築様式へ(連続交差アーチの進化形としてのポインテッドアーチ)

 こうしてみると、クリュニー修道院は、図らずも、結果としてスペインの優れた建設技術をフランスにイングランドに移植する橋渡しをしたと言えるだろう。クリュニー修道院がなければ、おそらくノルマン建築様式は誕生しなかったかもしれない。しかしながら、ノルマン建築様式の素晴らしいところは、連続交差アーチによって結果として生まれたポインテッドアーチの壁を打ち抜いたところにある。

 スペインの連続交差アーチは壁面を飾る意匠として度々登場するし、建築内外の意匠的アーチと用いられることはあるが、外壁を打ち抜くという発想ではない。ノルマン人特融の光への希求がそうさせたのであろうか?コルドバのメスキータは水平に広がる無限の闇黒が幻想的で神秘的な宗教空間を創造しているが、光を希求する為、外壁を打ち抜き、より多く光を得る為、垂直に上昇し光明による全く逆の方法で幻想的で神秘的な宗教空間を創造するのである。ここにゴシック的空間が誕生した。

 ポインテッドアーチはそうしてノルマン建築様式に誕生した。連続交差アーチの部位から単独ポインテッドアーチに展開していく過程は、イングランド国教会主教座ピーターバラ大聖堂のファサードにも見られる。
 スペインのイスラム小国が北のキリスト教国に取り込まれていく過程で、学問知識がイスラム圏からキリスト教圏に移植されていったことは有名である。特に、トレドには、イタリア、フランス、イギリス、ドイツからぞくぞくと留学生がトレドに集まり、アラビア語をマスターし、ユダヤ教徒の助けも借りて、「哲学・数学・天文学・光学・工学・科学・医学・錬金術・占星術・魔術」などの難解なアラビア語の書物をラテン語に翻訳した。またアラビア語に徹底的に翻訳されていたアリストテレス、ユークリッド、プトレマイオスなどの古代ギリシャ・ヘレニズムの文献も西欧に紹介されている。
 そうした状況下、建設に携わる修道僧、神父、マスタービルダーたちも、単に連続交差アーチの形態を意匠として採用するだけでなく、その作図の本質である数学を学ぶことにより、その本質に迫り、ポインテッドアーチの作図原理の再構成したのが、ゴシック建築様式のポインテッドアーチではなかったか?

■連続交差アーチの展開

イスラム統治下のスペインなくしてゴシック建築は誕生しなかった

 このようにして、ゴシック建築を創造したヒト、モノ、カネはスペイン(イスラム圏)からフランスにイギリス(キリスト教圏)に移動し、それは図らずもクリュニー修道院が担ったのである。そうして、神の手により、闇から光がとりだされた訳である。神は真に偉大なり。

2021/10/28修正

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