UmayyaU/後ウマイヤ朝 (コルドバのウマイヤ朝)/756‐1031年

イベリア半島におけるイスラム王朝で、同地のイスラム化を最も促した。ウマイヤ朝第10代カリフヒシャームの孫のアブド・アッラフマーン1世が、アッバース朝の追手を逃れて、756年総督ユースフを破りコルドバアミールを宣言することに始まる。アブド・アッラフマーン1世は、ウマイヤ朝国家体制に範をとって内政に対処し、王朝の基礎固めとその拡大に努めたが、ダマスクスのウマイヤ朝以来のアラブとベルベルの支配者同士の反目、スペイン人改宗者(ムサーリム)、土着ムスリム(ムワッラド)、アラブ化したスペイン人キリスト教徒(モサラベ)等の不満の鎮圧に腐心した。

アブド・アッラフマーン3世の治世に、領内の社会的統合を目指す政策を実施するとともに専制国家体制を完成し、カリフを称し、ファーティマ朝と北アフリカ領有の覇を争った。同王朝の経済的基盤は、農業生産と工業生産、およびその輸出にあった。とくに、アラブの優れた灌漑技術による農地の拡大と農産物の量産が行われ、その集散地であるコルドバやセビリャは繁栄を極めた。

ワジール(宰相)でハージブであったマンスール(?‐1002)は、幼少の君主ヒシャーム2世をめぐる宮廷内の権力闘争において、実権を掌握し、ジハードにより北部キリスト教国を脅かし、北アフリカの一部を領土とした。しかし、彼の死後、国内諸勢力・集団間の反目が本格化し内戦へと発展した。その後、コルドバでは有力市民評議会の擁立するカリフとハンムード家の3人のカリフが並立したが、ハンムード朝のカリフ、ヤフヤ一世がコルドバを放棄した後、市民評議会が擁立したヒシャーム3世は、擁立した市民たちによって、カリフ制を廃止、コルドバを追放され同朝は滅んだ。(*平凡社世界大百科辞典ではハンムード朝がヒシャーム3世を追放したことになっている)

文化
後ウマイヤ朝の文化は、絶えず東方の影響下にあり多くの文化人が東方から移住し、イベリア半島のムスリムも東方に留学し、帰国後優れた活動をした。とくに開明君主ハカム2世(915‐976)がコルドバに図書館を建設して以来、同朝治下スペインのイスラム文化は飛躍的に発展した。法学ではマーリク派がザーヒル派やシャーフィイー派を駆逐し支配的学派であった。また同朝時代には優れた文化人、歴史家アリーブ、詩人で《類いまれな頸飾》の著者イブン・アブド・ラッビフ、同じく詩人のイブン・ハーニーらを生んだ。

建築
建築様式は、ウマイヤ朝のそれらを根底にしながらも、コルドバのメスキータ馬蹄形アーチにみられる(ローマ時代が起源の)西ゴート風の形態、宮廷都市ザフラーに残るビザンティン風(或いはローマ帝国時代)の装飾などの影響を受け、東西の諸様式を巧みに融合した。


参考文献:平凡社世界大百科辞典/アラブとしてのスペイン・余部福三・第三書館

05/10/09// 07/02/17追記修正
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