ちょっと似すぎ!? part 19

アンダルシアのポインテッドアーチ?

不思議なことに後ウマイヤ朝時代の建築には、シンプルではっきりした形のポインテッドアーチが残っていない。その形態自体がなかった訳ではなく、アルハカム2世の時代に頻繁に登場するようになった連続交差アーチを構成する部位或いはその発展形として現れてはいるのだが、純粋なポインテッドアーチの様式として独立して発展した建築物は現存していないのだ。絶えず東方のイスラーム国から文化を採り入れ、その影響化にあった後ウマイヤ朝であるから、その形態自体を知らなかった訳ではないのだが、どういう訳か?好まれて採用されることはなかったようである。

*例外的な例としてトレドの城門、プエルタ・ビエハ・デ・ビサグラ Puerta Vieja de Bisagra(or,Puerta Antigua de la Bisagra)には中央の入口の両側にシンプルなポインテッドアーチがある。但しこの建設年については、はっきり分かっていないようで、平凡社世界大百科辞典では11世紀、MOORISH ARCHITECTUREIN ANDALUSIA Marianne Barrucand Achim Bednorzでは10世紀のものとされ、他に9世紀との説もある。少なくとも史料からアルフォンソ6世がトレドを制圧した時(1085年)には存在していた城門であるとされている。この門では珍しく尖頭型(ポインテッドアーチ型)の馬蹄形アーチの装飾が採用されている。これは下記の用にアグラブ朝で採用されていた形式であることから、9世紀建設という説があるのだろう。トレドの歴史
は古くローマ帝国時代からトレトゥムToletumとして知られているが、西ゴード王国時代には首都となり(560年)、後ウマイヤ朝の主要地方都市、ズンヌーン朝トレド王国の首都、アルフォンソ6世以降のキリスト教国の主要都市として知られ、イスラームの文化を西欧に伝えた最前線基地であったため、各時代の重要な建築物や遺跡が残っている。キリスト教の時代になっても、ムデーハル様式の建築が建てられた為、形態が似ていて、建設時期に誤解を生じやすい。例えば有名な太陽の門として知られるPuerta del Sol は一見いかにもイスラーム建築らしいが、実は13世紀のムデーハル様式で、トレドのイスラーム国時代に建設された訳ではない。、、、、が逆に言うと、こういった外観の建物は13世紀の北部スペインキリスト教国では特殊なものではなく一般的なものであったとも言える。

コルドバのモスクのマクスラの多弁先尖型アーチ961/62 コルドバのモスクのドームのアーチネットによる先尖型アーチ961/62 トレドの城門、プエルタ・ビエハ・デ・ビサグラ/9-11世紀? トレドの城門、太陽の門Puerta del Sol /13世紀
写真引用:toledoweb.org


ポインテッドアーチ自体は、イスラーム圏では、ダマスクスを首都とした前ウマイヤ朝の時代に、例えばカスル・ハラナ宮殿(710頃)やアムル・モスク(711)に既に登場しているし、アッバース朝時代には、ウクハイディール宮殿(778)、アムル・モスクの拡張部(750/791/827)と、続くアル・アーシク宮殿(877-882)に見られ、さらに同時代のエジプトのトゥルーン朝イブン・トゥルーンのモスクの中庭のポインテッドアーチのアーケード(876-879)は有名である。どうやら9世紀中頃にポインテッドアーチは、東方のアーチ様式の定番として確立した様である。エジプトではその後のファーティマ朝で、アズハル・モスク(970-)やハーキム・モスク(990-1012)で採用され、その後のモスク(アク マル・モスク(1125)、サーリフ・タラーイ・モスク(1160)もこれを継承して、アーチの定番となっている。

カスル・ハラナの先尖型アーチ710頃 ウクハイディール宮殿の先尖型アーチ778 アル・アーシク宮殿の先尖型アーチ877-882 イブン・トゥールーンのモスクの先尖型アーチ876-879

中世の後ウマイヤ朝期の建築物は殆ど残っていないため、ポインテッドアーチが採用された建物があったが、破壊されたのか?本当に採用されなかったのかは不明である (現存する後ウマイヤ朝時代の建築には、コルドバのモスクの最初の拡張期(832-848)からマディナ・アルザフラ(936-961)の間の約100年間の発達を現物で確認できない空白期間がある)。としても、後ウマイヤ朝が、その当時の東方イスラーム地域と建築的な交流がなかった訳ではない。実際、トゥルーン朝とほぼ同時期のファーティマ朝以前にカイラワーンを首都として北アフリカを統治していたアグラブ朝では、スーサのモスク(851)やカイラワーンのモスク(836/862/875)に、馬蹄形アーチ(先尖馬蹄形アーチ)が採用されており、これはアンダルシアの後ウマイヤ朝の建築に影響を受けたものであることは間違いないだろう。特に、後ウマイヤ朝代3代アミール、ハカム2世の治世の805年に起こったアルカンタラの戦いによって北アフリカに逃れたコルドバ市民によって、当時のイドリース2世がこれを保護したことから技術や文化が大量に伝播した史実は特記に値するだろう。

これらの状況から見て、コルドバのモスクの最初増築の時期にあたる850年頃には、馬蹄形アーチを有する建築様式がアンダルシアを中心とした周辺地域(北アフリカ西部)の定番様式として確立していたことを窺わせる。アグラブ朝は、アッバース朝に宗主権を認めていたが、文化圏としては、イドリース朝を経て、また直接的な後ウマイヤ朝の影響も大きかったのかもしれない。当時の地中海はアラブの商圏であり、交易を通じ様々な文化的交流があった為であろう。


コルドバのモスクの馬蹄形アーチ786-7 スーサのモスクの馬蹄形アーチ851 カイワラーンのモスクの先尖馬蹄形アーチ836/862/875
引用写真:.arab-world-information.com
マディナ・アルザフラ宮殿の馬蹄形アーチ936-961

 そういう状況下にあっても、後ウマイヤ朝の建築にポインテッドアーチが採用されなかったとすれば、当時既に、9世紀中に確立する東方イスラーム圏文化のポインテッドアーチへの様式上の対抗意識の様なものがあったのかもしれない。10世紀初めに後ウマイヤ朝は王朝最大の英主アブド・アッ・ラフマーン三世の時代を迎え、未曽有の繁栄期がはじまるが、そのころカイロを首都としたファーティマ朝も同時に繁栄を極め、ファーティマ朝のウバイド・アッラーフがカリフを称すれば、直ちに後ウマイヤ朝のアブド・アッ・ラフマーン三世がカリフを称した様に、政治的に対抗意識をもった2大王朝、アッバース朝を入れ3大カリフ王朝が誕生することになる。その状況下で、
10世紀始めには、8世紀の始めの東方イスラ-ムを発祥の地として9世紀中頃に確立されたポインテッドアーチを有する様式は、東方イスラームを象徴する様式となり、同じ様に、ローマ帝国の文化を継承し、西ゴード王国で培われ、コルドバのモスクで発展させられアブド・アッ・ラフマーン二世の拡張期の9世紀中頃に確立された馬蹄形アーチを有する様式は、西方イスラームを象徴する様式となっていたのであろう。それ故、9世紀中頃に確立されたポインテッドアーチは、西方イスラーム、後ウマイヤ朝にも伝えられたかもしれないが、その様式は、馬蹄形アーチを文化のアイデンティティーとして標榜する帝国の主要なモニュメントには採用されず、小規模なモスクや世俗建築物で採用されたが破壊され現在残っていないのかもしれない。10世紀後期に建てられた南フランスのサン・ミシェル・ド・キュクサ(Saint-Michel de Cuxa)の修道院教会は、馬蹄形アーチとポインテッドアーチアーチ形の横断アーチの双方を有する建築物であるが、西方イスラーム建築の影響を受けたと考えられているこの建築物(恐らくモサラベ様式)が、奇しくも10世紀のアンダルシアの建築文化の様相を伝えているのかもしれない。

サン・ミシェル・ド・キュクサの先尖アーチ10世紀後期
引用写真:
Abbaye Saint-Michel de Cuxa
サン・ミシェル・ド・キュクサの馬蹄形アーチ10世紀後期
引用写真:
Abbaye Saint-Michel de Cuxa


2006/01/28
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